アンストッパブル

疲れた~。
心拍数は上昇したまま、手に汗握る。
列車の音が迫力ありすぎ。
99分でよかった。2時間超したら身が持たない。
トニー・スコット風に(って、トニー・スコットや(笑))、カット割り、映像エフェクト多し。
持ち駒は全部使う、娯楽の王道。
ひとこと言うなら、「ちゃんと、仕事しろ!」>してなかった人に対して
(自分はちゃんとしているつもり(^_^;。)
[追記]
走る列車を降りて無人にした運転士には目が点になった。バスに乗るとき、ステップに片足しか乗ってない状態で発車されたことが何度もあるが、これはまだマシ。降りるとき、まだ降りきってない状態で発車されたらどうなるか。私は二度経験があるけれど、それはもう危険きわまりない。その経験からすると、この運転士の運動能力はたいしたものだ。もちろん、列車を無人のまま走らせることにも驚いたが、自動車のエンジンをかけたまま離れるってことをしたことがある身からすれば運転士を責められたものではない。だが、ファーストフード店の店員になってくれて心底ほっとした。
私が最もイラつき腹が立ったのは、ウィル(クリス・パイン)がフランク(デンゼル・ワシントン)を待たせたまま電話するところだ。緊急事態なら仕方がない。だが、ウィルにとって最大関心事ではあっても緊急事態ではなかったと思う。仮に緊急事態だったとしても、フランクはどういう事情か知らされないままだ。それも1度だけではない。
人は目の前の人よりも掛かってきた電話を優先しがちだ。優先しなければならない場合もあるだろうが、その時は事後でもいいから断りがあってしかるべきではないだろうか。
ゴルフをしながら事故処理の指示を出す鉄道会社の重役。すぐに現場に向かわないと、どこかの国の元首相のようなことになるのでは?「責任者はゴルフ中」、いずこの国でも同じかと可笑しかった。

アマデウス[ディレクターズカット]

めちゃくちゃ面白かった!
音楽はいいし、話とキャラクターは面白いし、スケール感もある。ヴィーナスの乳首だっけ?小道具もイイ(笑)。
こちらでの公開はいつだったか、当時観たときは神とサリエリの戦い(気の毒にもサリエリの一人相撲)という風に観たかもしれないが、それよりもファーザーコンプレックスのモーツァルトが可哀想で可哀想で(涙)。演者のトム・ハルスを好きになってしまった。彼は今頃どうしているだろう?
今回はファザコン・モーツァルトに免疫があったせいか、ディレクターズカットで約20分も延長されたせいか、私の中ではサリエリがぐっと大きい存在になった。
その結果、この映画はモーツァルトという天才への惜しみない賛辞と敬愛を持ちつつ、「凡人万歳」という開き直りにも似た凡人賛歌であるように感じた。
晩年、精神病院で生活するサリエリを尋ねた司祭は、「神のもとでは皆同じ」などと言って、なんとなく上から目線で懺悔を勧める。しかし、サリエリは伊達に年を経たわけではない。モーツァルトのおかげで、凡庸な才能の持ち主として長年苦しんだ経験の持ち主だ。(なまじ天才が理解できるから嫉妬もするわけで、神様はサリエリに対して、ホンマにひどい仕打ちだと思う。)そんなわけで、「神のもとでは皆同じではない」ことを司祭にわからせてしまう。司祭を転ばせたことによって、神への復讐を遂げたようにも見える。
モーツァルトの音楽に包まれ、スッキリとした表情で病棟の廊下を行くサリエリ。様々な患者たち。サリエリがどんな気持ちだかは知らないけれど、私はその表情を見て、天才に嫉妬し憎むことを含めて凡人でもいいではないかという気がした。
ディレクターズカットでどの場面が加わったかわからないけれど、サリエリのイタリアでの少年時代(明るい光線)かなぁ?どれだけ彼が音楽を愛し、神に祈ったか。これでサリエリ側に付いて観ることに。
モーツァルトの方も愛犬家の貴族の屋敷に家庭教師に行った場面は、彼の音楽に対する思いが表れていてよかった。う~ん、それに・・・・、免疫があったとはいえ、ファザコン・モーツァルトはやっぱりイイね!
[追記]
1985年6月の感想文を引っ張り出して読んだ。どうやら原作を先に読んでいたらしい。原作に凡人サリエリの悲哀を感じさせられたのに対して、映画には天才モーツァルトの悲哀を感じさせられ、音楽とともに胸に迫るものがあったと書いてある。「低俗な人間から高尚な音楽が生まれるはずがない」なんて断言しているところが若い(笑)。俗物とみられるモーツァルトに潜む純粋性が美しい音楽を生み出しているのだそうな(へぇ~)。「この映画の魅力はモーツァルトにつきると思う。」とあって、モーツァルトを演じたトム・ハルスにノックアウトされており、「主演男優賞はトム・ハルスに贈られるべきだった」とまで書いている。老いたサリエリは最初と最後に登場すれば充分で、何度も出てこられると集中力が途切れる、それが唯一の欠点とのこと。完全にモーツァルト中心に観ていたのだなぁ。

成瀬巳喜男(2本)

成瀬巳喜男監督の作品は、ずいぶん前に『女の中にいる他人』(夫から不倫相手の女性を誤って殺したと告白を受けた妻は、家庭を守るために事件を隠蔽しようとする。←チラシより)を見たことがありますが、大変緊密な映画でした。
本日観た2本も、さらりとした肌ざわりなのに、たっぷりとした濃密な時間をすごしたなあ、という感じです。それから2本とも女優に特別な照明を当てて美しく撮っているのがよかったです。映画を見に行くっていうのは、私の場合、第一に美しいものを見に行くってことなので。
しかし、なんですなー。浮気な男ばっかりですなー。成瀬巳喜男作品は。
■山の音
父娘以上恋人未満。
嫁と舅の微妙な関係のみならず、姑のキャラクターなど、すごく面白かったです。
原節子、華がありますね。鼻血を止血するところは、美しかったです。いろっぽい。舅(山村聰)も「はっ」としたのでは?
夫(上原謙)は、浮気しており、これは家族の間の周知の事実。上原謙、いやな役だねー。妻と夜の相性がイマイチなのを相手のせいにして。自分が子どもなんでしょ(プン)。
人間関係の微妙さを、ちょっとした表情で見せるのが映画らしくていいですねー。
嫁と舅がお互いを思い遣る姿が微妙にいいんですよー。
舅にとっては理想の嫁で、自分の妻だったらと思ったはずだし、嫁の方でも舅が夫だったらと思ったはず。いずれも恋愛感情とまでは行かなくても。
「富士に登らず老いた」という内容の川柳(理想の女性を嫁にできなかった)や、能面の使い方(仰向くと嬉しそうな顔に、うつむくと悲しい顔になる。原節子に似ている!)もうまかったです。
■浮雲
恋愛地獄。
私には理解できない世界でしたー。『アデルの恋』も真っ青。冷たくされると、なお追いたくなるのね〜。
男の方は、ある意味、誠実なんです。俺なんかやめとけって。
まさに、やめておいた方がよい男。すぐ女に手を出すし、生活力はないし。だけど、翳りがあって、ふと優しい。森雅之だから、惚れるのも無理ないか。殺傷沙汰まであるのよ。男と同棲している妻(岡田茉莉子)を、追ってきた夫(加東大介)が殺したのです。
これは恐ろしい映画だと思ったのは、終盤、女(高峰秀子)が病床から男とお手伝いさんの話しているのを見て、また浮気を心配しているところ。愛していても信用の置けない男って・・・・。病気のときも気が休まらないって・・・・。ただし、この場面、男はお手伝いさんに、女の容態を逐一医者に知らせてくれと頼んでいるところだったのです。
しかし、なんですなあ、この行動力。恋愛パワー。「萌え〜」なんて、あちらさんには理解出来ないかもしれませんね。

セルラー(他2本)

■セルラー(DVD)
いやー、これは面白かったです!
始まって5分も経たないうちにキム・ベイシンガーが誘拐され、そこから切れ目のないサスペンス。クリス・エヴァンス、大活躍。いまどきの若者も捨てたもんじゃないってことを証明してくれました。
それからウィリアム・H・メイシーが、本人のキャラクターを生かしたかのような役柄でベリーグッド。彼以外のキャスティングは考えられません。
そして、悪役のジェイソン・ステイサムと○○は、もうサイコー!ステイサム、うつくしー!
電話嫌いの私は、未だにケータイを持ってませんが、勉強になりました〜。
■プルーフ・オブ・マイ・ライフ
う〜ん、あまりパッとしませんでしたね〜。だけど、捨て置くにはもったいない部分があったので、感想をメモっておきます。
登場人物が好きになれななったのですね。主人公は、父親を亡くしたばかり。父親は、かつては天才数学者でしたが、長い間精神を病んでいました。主人公は、自分も父親のように心を病むのではないかと不安を抱え、自分のことで一杯いっぱい。だから、彼女の情緒不安定を広い心で受け止めてあげなくていけないんだけど、グウィネス・パルトローは同情を引くような演技ではないのよね〜。
彼女の姉は、妹を心配して自分の目の届くところに引越しさせようとするのですが、あまりにも自分勝手で(妹を本気で心配しているにしても)全く好きになれません。
父親(アンソニー・ホプキンス)も好きと言うほど魅力的なキャラクターではないし。ただ一人、グウィネスを好きな青年(ジェイク・ギレンホール)が、ましなキャラクターと思えるくらい。(余談ですが、ジェイク・ギレンホールは、今年は飛ばしてますね。『ジャーヘッド』『ブロークバック・マウンテン』など公開が楽しみです。)
で、この映画、肝心なのはプルーフ(証明)。主人公にとって愛の証明は「信頼」されているかどうかってことだったらしく、姉に対しては自分が信頼されていないことに苛立つばかり。ジェイクとはいい関係を築けそうだったのに、彼は彼女の言葉を信じませんでした。これはもう、彼女にとっては愛されていない証明になってしまいました。
彼女の頭の中は、きっとこう。「愛=信頼、信じない=愛してない、信じないふ≠愛する」
この頭を切り替える苦悩を描いた映画と思います。
それと、父親との遣り取りが、なかなかよかったです。親が衰えた姿を見るつらさがよく出ていました。
■幕末
1970年の作品。高知東宝サヨナラフェスティバルで500円で見てきました。
これもあまりパッとしなかったけれど、捨て置くにはもったいないです。
中村錦之助はカリスマやね〜。ひとりオーラが違うもの。多分、竜馬は錦之助ほどりっぱじゃなかったと思う(笑)。
それから、思いもよりませんでしたが、この映画は人権映画でした。(って、私だけが感じたことかもしれませんが〜。)土佐藩では上士と郷士とで差別があった。郷士で勤皇等を作ったが、血判を押した者同士の間でも町人出身の者を差別する。こんなサムライなんか無くすに限る。そう思い始めた竜馬は、当然、天子様も人間じゃという話になります。
「土州も長州もない、日本人じゃないか」という竜馬の言葉を今の時代に置き換えると、「日本人も中国人もない地球人じゃないか」というところでしょうか?あるいは「ホームレスも天皇も人間じゃ」、かな。