怪談雪女郎

う~ん、約束は守らんといかんねぇ。
与作(石浜朗)が山で遭った雪女(藤村志保)は、彼に一目惚れ。他言無用を約束し、殺されずにすんだ。
約束を守りさえすれば、恋女房と愛息としあわせに暮らせたのに。でも、そうすると別れのときの雪女の慈悲の表情を見ることもなく、受注した観音像の顔のモデルがないということになり、彫りあげることが出来なかったかもしれない。人生、すべてが好カードというのは難しい。

怖い怖い雪女も恋をするといじらしいし、子どもを育てると善き母だ。愛する夫と子どものために能力を隠して大人しく暮らしているのに、魔を察して湯玉を掛ける巫女さまが憎らしい。
大映作品はなぜかエロティックなイメージがあるけど、本作も与作とゆき(実は雪女)の新婚初夜の様子や、ゆきの脱げかけた着物からのぞく白い肩や、いろんな所作がたおやかで官能美が匂う。昔の映画のよさだと思った。
雪女の金色の目や睨みは怖いと言うより綺麗だった。辷るように移動していくが、台車か何かに乗っているのだろうか、それとも能のような足運びをしているのだろうか。

ぜんぜん怖くなくて最後の別れが哀しいくらいの作品だけど、雪は美しいが人の命を奪う恐ろしいものという自然を畏怖する人間が生み出した怪談・悲恋物語として楽しめた。
(2021/08/21 高知県立美術館ホール)

キネマの神様

面白かった。役者が皆イイのだ。
ジュリーは志村けんを思いながら演じたんだと思う。驚くほど志村けんだった。

新型コロナウィルスが登場した現在、78歳のゴウ(沢田研二)が若い頃(菅田将暉)映画監督を目指していたというのは良いとして、若い頃って1960年代だと思うんだけど、私のイメージでは1950年代に見えた。桂園子(北川景子)のような女優さんは、60年代までかな。70年代とそれ以前はぜんぜん違うと思うけど、50年代と60年代はあまり違わないのかも(?)。そう思えば納得。

ほんと、役者がいいので配役を書いておこう。そうすると、いいところを思い出せる。
ゴウの妻、淑子(宮本信子/永野芽郁)、娘(寺島しのぶ)、孫(前田旺志郎)
テラシン(小林稔侍/野田洋次郎)、出水監督(リリー・フランキー)

気になったのはテアトル銀幕の男子小用便器。いまどき、あそこまで汚す必要があったろうか?
(2021/08/06 TOHOシネマズ高知4)

イン・ザ・ハイツ

やっぱりミュージカルは楽しい!
ラップ?ヒップホップ?その系統の音楽は、あまり好きではないけれどノリノリだった。歌も踊りも色々系統が混ざっていたような気がする。水中でバレエみたいに足を動かしているのには笑った。ヒスパニックがバラエティに富んでいる証しだろうか?
「おおーっ」となったのは、ニーナ(レスリー・グレイス)とベニー(コーリー・ホーキンズ)がジョージ・ワシントン橋を背景に『ウエストサイド物語』で見たようなビルの壁面で歌い踊るシーン。映画の魔法だ。

お話はウスナビ(アンソニー・ラモス)の青い鳥探しが主軸で、バネッサ(メリッサ・バレラ)との恋物語でもある。それに、移民一世で皆の母親的存在であるアブエラ(オルガ・メレディス)から、ニーナの父ときて、不法移民の子どもサニー(?)まで、ヒスパニックが受ける差別や不法移民の状況など織り込まれているが、忍耐と信仰を持って真面目に働くというポジティブ路線が貫かれている。それにしても不法移民という名詞はどうにかならないものか。手続き未完了移民とかの方が、まだ実態に合っていてマシだと思う。真面目に働いている人を大事にしてほしいと私などは思うのだが、この映画の作り手は一歩も二歩も進んでいてサニーにはデモや集会に参加させ、退学しようとしていたニーナには卒業して政治家になり移民の状況を変える決意をさせる。あくまでポジティブ、合理的。
アメリカ映画っていいなあと改めて思った次第。
(2021/08/04 TOHOシネマズ高知1)

プロミシング・ヤング・ウーマン

面白かった!!!
今年は『茜色に焼かれる』『82年生まれ、キム・ジヨン』『大コメ騒動』など女性パワーが炸裂しているなぁ(やんややんや)。
キャシー(キャリー・マリガン)、もっとやったれい!という気持ちと、彼女が可哀想で可哀想で何とか彼女の傷を癒やすことはできないものかという気持ちが交錯。作り手の狙いだろうか、娯楽と本気の混交が何とも落ち着かない気持ちにさせられる独特の作品だった。

考え抜いて作られていると思う。「相手の同意のないセックスはダメ、絶対。」と言いたいことが明確で、レイプの二次被害についてもしっかり描いている。レイプされたニーナを自業自得と無視した友人や、加害者の処罰を避けた医大の学長(医学部長?)を女性にしたのは見識だと思う。ブラックなコメディ仕立てにはしているが、二次的なものも含めて性加害に対する作り手の怒りを感じる。
キャシーが素面で強く出ると男性が引きまくるというのも、弱者蔑視の構造を端的に表現している。男女間に限らず、自分より弱い存在であるとみなすと強く出る人は、相手に意思があるとは思っていない。そして、自分より強い存在であるとみなした相手には、自分の意思を引っ込めるのだ。野生動物っぽい。ってことは、本能?

一番感動した場面は、キャシーが加害者側の弁護士を訪ねたところ。始め弁護士の様子が尋常ではないので怖かった。ところがそれは、自身の弁護によって被害者に与えたダメージに思い至って良心の呵責に耐えかねていたのだった。現実にはめったにないであろう「許し」のシーンは、キャシーの再生の第一歩でもあった。

しかし、よく出来てるなぁ。キャシーはお仕置きした人数をノートに書き付けている。4本の縦線を1本の斜線で串刺しにして5人というふうに(日本だと「正」の字で数えるけど)。画面に大きく「Ⅰ」「Ⅱ」という風に表示されていたのは、起承転結という意味で最後の斜線はエピローグかと思っていたけれど、考えたらお仕置きした人の数かな?だよねー。
デリバリーなんちゃらに化けたキャシーの言いなりになって、バチュラーナイトに集まった新郎の仲間が膝を突いて口を開けて並んでいる顔をスローモーションにしたところ、冒頭のバーで踊る男性たちの腰をスローモーションにしたのと呼応している。
場面ごとの場所の作り込みがとてもいいし!
細かいところまで、もう一度観たくなる。

(追記)
1)ニーナとキャシーは幼いときから仲のよい友だち同士で、一つのレイプ事件が二人の命を奪ったと言える。仮にキャシーが生きていたとしても彼女自身の人生を生きていないという意味で、やはり生きる屍状態だったと思う。
文学的には「ニーナ=キャシー」であって、キャシーを魂の殺人とも言われるレイプの被害者として見てもよいと思う。それぞれのネーム入りのペンダントは、「ニーナ=キャシー」を表現したものだと思う。ただし、実際の被害者は自責の念が強く、サポートする人はまず「あなたは悪くない」ということを言うそうだから仕置き人になれるはずもなく、仕置き人のようなキャシーの行為は作り手の気持ちの表れだと思う。「ニーナ=キャシー≒作り手」ということかな。

2)「キャシー」は愛称で、本名は「カサンドラ」という暗号にピンときて、確かギリシャ神話に出てくる人だったはず……と「カサンドラ」を検索したら、予言を信じてもらえなかった人とのこと。あれれ、キャシーは「予言」なんてしてたっけと考えが及ばなかったワタクシにマイミクさんがその感想文で教えてくださった(感謝)。被害を訴えても「信じてもらえなかった」、そこ!
(2021/07/21 TOHOシネマズ高知1)