十年一昔というけれど、50年昔は歴史だと思った。私が子どもだった1970年代は最早歴史なのだ。問われたら証言しなければならない(?)。
グリコ森永事件は1984年。その事件をモデルにしたフィクションでこれほどの物語を紡ぎ出せることに驚き、物語自体に感動し、映画としても色のトーンや要所でのロングショットやちょっとしたユーモアや多彩な登場人物を演じる俳優の豊かさなどを堪能した。
何よりも驚いたのは、『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』で終わった学生運動への総括があったことだ。ギンマン事件の動機を体制への抵抗であり社会をより良くするためだったと言う曽根達雄(宇崎竜童)に対して、記者の阿久津英士(小栗旬)は子どもが犠牲になっていることを告げ断罪する。
また、事件当時、子どもだった自分の声を脅迫に使われたことを知った曽根俊也(星野源)は、録音した母(梶芽衣子)に犯罪に使われた気持ちがわかるかと質す。母は悪かったと思っているので一言も返せない。
社会正義に端を発した学生運動も内ゲバやあさま山荘事件にまでなると、犠牲者がいる言い訳のできない犯罪であると作り手(原作者の塩田武士は1979年生まれ)に総括されたと思う。(俊也の母については50年前は曽根達雄らと学生運動をしており、35年前のギンマン事件当時は熾火が燃え上がったように描かれていた。子どもの将来を考えられないくらいに衝動的に警察への敵討ちに傾いたことは、今の姿を見れば達雄と違って若気の至りの面もある感じた。作り手も若気の至りと思っているかどうかは不明。)
平成の最後の年に、未解決の劇場型犯罪に利用されたマスコミとして落とし前をつけようという新聞社の社会部編集長たちの心意気がよい。昔の事件をほじくり返されて傷つく人がいるのに記事にする意義があるのかと問う阿久津の葛藤もよい。編集部がまるで刑事ドラマの捜査本部だった。過去を振り返り調べ、現時点での検証を行うことはいいことだなあ。そうしないと生島望と聡一郎のことが埋もれてしまっていただろう。新聞の役割に目覚めた阿久津は、文化部から社会部へ戻るのだった。文化部だって社会の公器としての役割はあるのに(ブツブツ、この映画での文化部の立ち位置がねぇ。実際はどんなものなの?)。
予告編ではわからなかったが、子どもだった自分の声を脅迫に使われたことを知った俊也の不安と悩みと知りたい気持ちも理解できた。
一番泣けたのは、放火して逃げる生島聡一郎とその母の別れのシーン。聡ちゃん、あんた、つらかったねぇ、姉ちゃんのことも悔やんだろう(ToT)。スーツが似合ってよかった。
ほっこり笑ったのは、堤防での俊也と阿久津のシーン。俊也の褒め言葉に照れて先に歩いて行く阿久津。お気に入りのシーンだ。
(2020/11/09 TOHOシネマズ高知1)