淪落の人

感動ー。
淪落って落ちぶれることだって。
エヴリン(クリセル・コンサンジ)の向上心、働きぶり。
チョンウィン(アンソニー・ウォン)の親切、妄想(切ない)。
ファイ(サム・リー)の恩返し。
フィリピンのメイドたちのたくましさ。
好交流。肉親じゃなくても。
泣きながら元気になれる。
(2020/10/12 ゴトゴトシネマ メフィストフェレス2階シアター)

星の子

とても好きな作品だ。(もう一度見に行こうか迷っている。)
思春期真っ只中のちひろ(芦田愛菜)が、宗教を盲信している両親(原田知世、永瀬正敏)から離れることができるかどうかというお話。伯父さん(大友康平)は両親の目を覚まさせようとするし、姉(蒔田彩珠)は早々と家を出て独立。それでも、ちひろに疑心が生じることはなかったが、一目惚れしたイケメン先生(岡田将生)に両親を不審者と間違われ、ようやくちひろも両親と信心に疑問を持つ。

脚本も撮影も美術もとてもいい。演出も手堅い。無理無駄ムラがない。
ちひろが小学生の頃は新築の家に住んでいたが、中学三年生となった今は古い平屋になっている。飲んでいると風邪も引かないという命の水を買うのに、大分お金をつぎ込んだのだと思う。ちひろの成長ぶりが独白ではなく、回想シーンからわかるようになっている。家出した姉が一旦帰宅したとき、無邪気だったちひろはその時の姉の気持ちがわからなかったが、回想している今のちひろは少しわかるようになっているというふうに。

結局、「信じる者は救われん」。周りでやきもきしている伯父さんや、信じるに値しないと気づき、いっしょに住めなくなった姉は別の幸せを見つけなければならない。私は伯父さんと同じで、怪しい宗教に凝り固まると幸せにはなれないと思っていた。でも、ちひろは両親といっしょにいて幸せなのだ。肩を寄せ合って同じ方を見ている親子の様子に、こういう幸せもアリなのかと思わされた。父が寒さでくしゃみをしても(例え風邪を引いたことがあっても)、「風邪を引いたことがない」と言い切れる思考停止ぶりでも当人が幸せならいいではないか。ただし、かなり閉じられた世界での幸せだと思う。
教団の集会にいっしょに参加した同級生(赤澤巴菜乃)の彼氏は同じ方を見ていけるのだろうか。彼氏と同じ方へ向かうため、彼女の方が教団を脱するかもしれない。(教団の幹部を演じた黒木華と高良健吾が嵌まってた(^m^)。)

姉と異なりちひろが幸運(?)だったのは、幼なじみの親友(新音)が寛容で伯父さんや私みたいな偏見を持っていなかったことだ。命の水の怪しさも両親の奇異な行動も揶揄されることなく、世間とは異なるということを淡々と教えてくれて、イケメン先生にこっぴどい仕打ちを受けたときもカッコよく慰めてくれる。この親友の彼氏(田村飛呂人)もサイコーで、ちひろの涙のシーンで私は爆笑してしまった。この二人のような人間になりたいものだ。二人はちひろの窓だと思う。閉じられた世界に居続けるのは、やっぱり弊害があると思うので。宗教だけに限らないけど。

セリフのうえで美少年エドワード・ファーロングが登場したので、なつかしくなって検索したら、眼差しは相変わらず不健康そうだけど予想を上回る変貌ぶりだった。それでも元祖隈王子は不動なり。
(2020/10/14 TOHOシネマズ高知7)

浅田家!

楽しいファミリー映画だ。
浅田家のインテリア、つかず離れずの家族の距離感、イイネ。
母(風吹ジュン)も父(平田満)も兄(妻夫木聡)も弟政志(二宮和也)も、それぞれに(^o^)。私は消防士さんになりたかった父ちゃんファン。
弟の彼女(黒木華)、弟にはもったいない(笑)。しっかりした人が、そうでない人とカップルになった方が上手くいくのね。

そして、やはり、写真は記録媒体であり記憶媒体であると意識させられた。
政志が東日本大震災後の東北に行って写真を撮れず洗っているとき、一方で被災者にカメラを向けている人が複数いた。多分、報道人だと思うが、これは写真の記録機能を活用しているのだと思う。家族写真を撮ってきた政志は記録よりも記憶の方により重きを置いている。芸術写真はどういうものなんだろう。記録か記憶か、その両方か、はたまた別のものか。木村伊兵衛賞、初めて聞いた。

政志の家族写真を写真集として出版した赤々舎の社長(池谷のぶえ)のキャラが最高だったので、検索してみた。
齋藤陽道の写真集も出していた。

赤々舎
“天才写真家”を次々と発掘 業界に風穴空ける女性創業者の「目利き力」 (1/7)
(2020/10/08 TOHOシネマズ高知7)

うたのはじまり

いろいろ触発される豊かな作品だと思う。
齋藤陽道の撮った写真に彼自身の感じたことを書いた作品(「それでもそれでもそれでも」という作品集になっている)をいくつか観たことがあって、いいなぁと思っていた。宮沢賢治の「春と修羅」の詩を写真で表現した写真集を出したと聞いて、観てみたいと思っていた時期もあった。それから幾年ゾ、予告編を見て、こんな美しい人だったのかと思い本編を観る気になった。

若いときは誰でも夾雑物がないゆえの美しさがあると思う。年を取っても美しい人は、澄んでいてまろやかで水底に沈殿物があるせいか奥行きのある美しさだ。齋藤陽道は、もちろん前者で人を惹きつけるとてもよい被写体だ。(50歳を超えた齋藤さんを是非、観てみたいと思った。)
その(ろう者で音楽も歌もわからないと言っていた)被写体を追っていると、子どもが生まれ、やがて子どものために自然と子守歌が生まれた。それを見ていた客人(友人の七尾旅人)が、原始の時代から「本当の」歌とはこういうもの(感じたことが歌になり周囲の人と共有するもの)だったのではないかと感動する。
「ろう者と音楽」という構想はあったかもしれないが、撮り始めたときは、齋藤陽道が歌うことも七尾旅人がまとめになるような素晴らしい発言をすることもわからなかったわけだから奇跡のような作品に思える。(即興の歌が韻を踏んで詩になっているのは、斉藤陽道が詩人だから。マンガを描くことには驚かなかったが、プロレスラーだったことには驚いた。)

歌うと気持ちがいいと言っていた。また、絵や写真は生存本能の発露であるとも。そのとおり!言葉にしてくれてありがとう。絵や写真に限らずアート全般(歌も、ついでに感想を書いたりおしゃべりも)、表現、出力、アウトプット、排泄、どう言ってもいいが、それは芸術家でなくても必要なことだ。まさに生存本能の発露だ。同時に入力だって必要なことだ。出したら入れる。入れたら出す。どちらが先かはわからないが、どちらも必要。
新型コロナウイルスで芸術・文化も保護施策の対象としたのはドイツ政府だったか、どこだったか。わかってるね!『うたのはじまり』を観て思ったことの一つだ。

ろう者も楽しめるように音楽が、五線上の絵になってスクリーンの下を流れる。生き物みたいで面白かった。
(2020/10/07 ゴトゴトシネマ メフィストフェレス2階シアター)