愛にイナズマ

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アベノマスクの最高の使い道

石井裕也監督の作品は『茜色に焼かれる』『ぼくたちの家族』『舟を編む』『川の底からこんにちは』しか観ていないが、ユーモアがあって私とは相性がよく、『愛にイナズマ』も笑って泣いて元気になって劇場を後にした。世知辛い世の中で理不尽な目にあっても耐えて働く日々と、色々あっても愛のある家族のよさと、倫理的に許しがたいことに対するロケットパンチの爽快感とがあり、お天道様のもと真っ当に生きている人たちへの応援歌となっている。アベノマスクなどの風刺も効いており、主人公が撮ろうとしている映画のタイトル『消えた女』が映画の終盤、別のタイトルに変更されるのも機知に富んで実に楽しかった。

今、思い出しても映画監督(商業デビュー)を目指してへこたれない花子(松岡茉優)には元気をもらえるし、花子の恋人で妖精のようにふわふわな正夫(窪田正孝)を見ていると優しくなれそうな気がするし、昔は暴れたこともあったらしいが今や「ですます」調で正座が似合うキリスト教徒になった花子の父、治(佐藤浩市)にはフツフツと笑いが込み上げてくる。花子の兄たち(池松壮亮と若葉竜也)もそろってバリバリやり合うシーンは笑いっぱなし。脇役もキャラクターが立っていてバーのマスター(芹澤興人)がグラスを落とすところなんかサイコー(^o^)。それに、花子を首にしたうえ企画まで奪ったプロデューサー(MEGUMI)と助監督(三浦貴大)のむかつく態度と言動がいかにもありそうで、特に三浦貴大がこんな嫌な役が抜群にうまく出来るとは思ってなかったので感心した。そして、デビュー当時から大好きな俳優、益岡徹がこれまたいつものようにピッタリの役柄を温かく演じて素晴らしかった(拍手)。そうそう、むかつく社長(高良健吾)には、あまりにも劇画チックでこんな人いないでしょうと思ったけれど、それには布石があって花子が実際に目撃した人物を脚本に書いたところ、プロデューサーと助監督から「そんな人あり得ないでしょ。もっと人間を観察して。」と言われていたのだった。つまり、この作品の中であり得ないと思われる人物がいたとしても、それ、実際にいるんです~という作り手の叫びが聞こえるようになっている(笑)。現実と現実らしさの狭間を行き来するのがフィクションだと改めて知らされる。
正夫が、空の親友(仲野太賀)に向かって「生きててゴメン」というところは切ない。自分だけ幸せになってゴメンという思いと、ゴメンと言うほど幸せだという思いに泣きそうになった。
(2023/11/09 TOHOシネマズ高知5)

ライオン少年

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中国の今をかいま見る

オープニングの獅子舞のアニメーションに気分上々(^o^)。このまま平面アニメで行ってくれてもよかったけれど、後はCGアニメになっていた。いずれも、キレッキレの獅子舞がカッコよく「やんややんや」だった。
お話はやせっぽちでいじめられっ子風の主人公が都会で働く両親に会いたいと一念発起、仲間とともにその都会で開催される獅子舞競技に出場するべく師匠について鍛錬するも、両親が帰郷したと思ったら父が意識不明の大怪我ゆえだった。家族を支えるため今度は彼が出稼ぎに行く。そして、ついに競技の日が来てという、逆境に負けそうな人への応援歌、あるいは不屈と挑戦の心を励ます作品になっていた。

そういう本来の作品の面白さの他に、今の中国を垣間見られるのも魅力だ。
南の方は春節の頃、半袖でいいのかと驚いたし、植生も南方風で納得。挿入される歌に英語の歌詞が一部付いていたりで、日本と同じだと思ったり。他にもいろいろ気がついたことがあったのに、早忘れてしまった。

獅子舞競技で決勝の対戦相手は、最後の棒に乗ろうともしなかった。低い棒から高い棒へと舞いながら飛び移っていくのだが、最後の棒は世の中には乗り越えられないモノがあるという、いわば戒めの棒のため本来、挑戦不可なのだ。ところが、主人公は挑戦しようとする。これは困ったことになった。挑戦が成功すれば、戒めを破ることになるし、不成功に終われば映画がどっちらけで終わってしまう。どうするかと思っていたら、鮮やかなラストシーンに唸った(拍手)。
(2023/10/26 あたご劇場)

キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン

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果てしない欲
底なしの弱さ

アカデミー賞総なめ!・・・・しそうな傑作。情報量が膨大で付いていくのがやっとの身には体感時間が短く感じられ、3時間半はあれよあれよという間に過ぎ、たいへん面白かった。
アメリカ先住民のオセージ族は、強制移住させられた場所に原油が噴き出し、自動車が普及しだした1920年代は大金持ちとなり、でも、管理能力がないとされ白人の後見人にちょっとした買い物でも一々許可をもらわねばならず、金目当てで結婚した相手に殺されたり、殺されたり殺されたり(実際、いったいどれだけ殺されたんだろう)しても警察も白人だから病死や自殺ということにされたという本当の話がもとになった作品。映画のおしまいには監督本人が登場して「告発」の弁をのたまうのが、今更の感がなきにしもあらず(というのは『ソルジャー・ブルー』とかもあったし)だけれど、やはり、私はオセージ族もこの事件も知らなかったので「告発」の意義はあると思った。

先住民に対する差別意識から全く罪悪感を持たず数々の殺人を犯す人々も恐ろしいが、主要な登場人物アーネスト(レオナルド・ディカプリオ)、その叔父ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)、アーネストと結婚したオセージ族のモリー(リリー・グラッドストーン)の三人の怖さもなかなかのものだった。
ヘイルおじさんは、畜産の事業が成功して地元の名士で既にお金持ちだが、アーネストをけしかけモリーと結婚させ(というかアーネストはモリーに本気だったのだが)、モリーの姉妹三人を次々と殺させる。家族の財産(石油の受益権)を相続したモリーも殺してアーネストが相続できるようにということだから、言いなりになるアーネストが相続したモノは自分のものというわけだ。恐ろしいまでの欲の深さだ。裁判で検察側の証人になったアーネストを殺そうと画策していたのも呆れるほどの自分本位。けれど、人ってヘイルほど極端ではないにしても、足るを知らず自己中心的である。

アーネストは、ヘイルおじさんに命じられるままにモリーの姉妹の殺害に関わっていく。自ら手を下さずとも殺しを下請けに出すのだ。果ては、妻の薬に少しずつ毒を盛る。愛する妻を失いたくないと思いながら、おじさんに逆らえない呆れるほどの弱さ。重なるのはユダヤ人虐殺に関わったアイヒマンだ。上司の命令に逆らえず、殺す側に回ってしまう。他人を傷つけても自分が痛い目にあわない方を選んでしまう弱さは、誰でも持ち合わせているのではないだろうか。

モリーは結婚する前からわかっていた。童顔で可愛らしいアーネストが、コヨーテのように油断ならない小者であること、また、御しやすいということを。オセージの言葉を教え、子どもをもうけ幸せと言ってよかったと思う。母が亡くなり妹や姉が死に殺人だとわかると夫に助けてねと乞い、病を押して遙々遊説中の大統領(?)に会いに行き、地元では捜査すらしてくれないと訴えもしたのだから、毒を盛られていることにも気づいていた。仮に、毒を盛るのをやめてほしいと言ったとしても、そんなことはしていないと否定されるだろう。否定せず、悪かったと言って毒を盛るのをやめるなら、始めから毒を盛るようなことはしないだろう。「やはりコヨーテだった。おじさんに逆らえないのもわかっていた。アーネストの弟バロンがおじさんに逆らえないように。」(バロンはおじさんに虐待されているかとアーネストに尋ねたのはモリーではなかったか?)とモリーが考えたのかどうかわからないが、夫が姉妹殺しに関わっていそうだと薄々察しながら、それでも愛している。果たして、映画や小説の中だけの話だろうか。

三人三様の恐ろしさだ。「にんげんだから」

ここまで人という生き物に突っ込んでいった脚本は大したものだ。人を正面から描くほど滑稽に見えて可笑しいものだが、そこはそれ、力のある俳優陣におまかせだ。効果音を含めて音楽も力強い。噴き出した原油で真っ黒になったオセージの民が踊る場面など、スコセッシ監督健在なりといった感じ。牧場を焼くシーンでは『天国の日々』を彷彿させられ、もしかしたら過去の西部劇などの引用が散りばめられているかも。なんせ、映画オタクの監督だから。しめくくりのラジオの公開放送みたいなシーンは、風格のある作品に対して「なんちゃって」風の軽妙さをプラスして「告発」の重さを客体化しているように思った。
そして、何よりエンドロールの「音劇場」が素晴らしいのだ。嵐の音には、劇中で結婚前のモリーとアーネストが静かにその音を聴くシーンを思い出し、自然とともに生きてきたオセージなどの先住民へのリスペクトを感じるし、嵐の後の虫の声にはアメリカ先住民と我々日本人は似ているのかなとか、スコセッシ監督念願の制作だった『沈黙 サイレンス』のエンドロールと同様だなとか思えて一入感慨深かった。

『沈黙 サイレンス』の感想
(2023/10/23 TOHOシネマズ高知2)

丘の上の本屋さん

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心の食べ物

久々に観るイタリア映画がよい作品で嬉しい。原題は「幸せになる権利」らしいけれど、邦題がこの作品にピッタリだ。観ていると原題はダイレクトに観客に伝わるように作られているから、邦題の方がゆかしくて良いくらいだ。

見晴らしのよい丘の上にある古書店の店主リベロ(レモ・ジローネ)とブルキナファソからの移民の少年エシエン(ディディー・ローレンツ・チュンブ)との交流をはじめ、訪れる人たちとの遣り取りが微笑ましく、本というものがどういうものか(作り手が本をどうとらえているか)わかる。リベロがエシエンに最初に貸した本はミッキーマウスの漫画本なんだけど、その後が「ピノキオ」「イソップ物語」「星の王子さま」「白鯨」「シュバイツァー伝記」だったかな、もっとあったような気がするけど;;;、何より本は楽しく面白く教訓でもあり詩でもあり心の糧となるものと言いたげだ。そして、最後に一番大事な本とのことで、「しあわせになるんだよ」という言葉とともにエシエン少年にプレゼントされたのが「世界人権宣言」。や~、感動した~(ToT)。昨今、世界中で移民排斥やら人種差別やら日本においてもヘイト本、ヘイトデモなどがあり(実はそれだけではない、ありとあらゆる問題につながっている)人権というものがないがしろにされている世の中に、人々にため息をついていた者は、もれなく感動しただろうと思う。あるいは子どもに勇気づけられ希望を感じ、その幸せを願っている者は間違いなく感動しただろう。

また、本屋の心意気とも言うべき、リベロの考えも気持ちよかった。本を捨てるなんてと怒り(怒られた気がした;;;)、発禁本を世に広めるのは本屋の使命と言うのだ。
お客さんで印象に残っているのは、かつての著作本がどこにもないという元先生。自分の著作が生きているうちに世の中から無くなってしまったら悲しい。一所懸命書いたものならなおさら。著作者の気持ちと、時間が良書を選っていく厳しさ、だからこそ残ってきたものの確かさというものを感じた。
また、ゴミ箱から漁られてリベロのもとにやってきた日記。生きていたらリベロ爺さんより年上と思われる女性の20歳代の日記と思われるが、それを読むリベロの共感の表情がよい。日記文学があるのは古今東西日本だけとドナルド・キーンさん♥はその著書で言っていたので、あの世へ行ったらこの場面を見ての感想を訊いてみたい。

日本の古本屋・・・・品切れの書道の本を探していて見つけたサイト。映画のパンフレットとか、いろいろ検索してみると金額を含めて面白い。

(2023/09/30 あたご劇場)