愛がなんだ

若いって、恋愛って、面倒くさい。自分自身でさえ思い通りにならないのだから、他人ならなおさら。もうなるようにしかならない。その種の世界から遠くなってよかった。ホルモンもフェロモンもない安寧の境地だぜよ。だけど、みんな可愛いかったなぁ。
(2019/07/15 あたご劇場)

菊とギロチン

聴覚検査はパスしても、わーわー系とボソボソ系は苦手。この映画はわーわーガーガー系でとても聴き取りにくく、大仰な演技とやたらとカメラを振り回されることに最初から疲れてしまい、「3時間もあるなら寝てもいいや」と寝た(^_^;。
けれど、やはり力作。たいしたパワー。いろいろ触発されるところがあり、見た後、誰かと話したくなる。

ハイライトシーンは、DV夫に従い帰ろうとしている花菊(木竜麻生)を古田(寛一郎)が身体を張って止めようとするところ(相撲に戻れと)。中濱鐵(東出昌大)の飛ばす檄がオーバーラップ。その檄に奮い立たされるかのように、ひ弱な古田が暴力夫に挑み続ける。そして、再度タイトルの「菊とギロチン」が赤い文字で挿入される。瞬時に「肉体と言葉」か!と閃いた。
このシーンまで古田や中濱などのギロチン社の面々(彼らだけではない)の中身のなさにうんざりしていた。女相撲の面々の身体感覚を伴ったどん底感、どすこい感と対比されて、(恐喝や殺人など色々行動しているのに)口先だけの輩に見えてしまっていた。自由を求める女力士に共感して純粋なのねとは思ったけど。
・・・・要するに何ごとも成し得なかったギロチン社の二人が、言葉と行動で女一人を自由にした、成し得たという話。作り手が彼らに花を手向けた感がある。

エピローグでギロチン社の面々の氏名と成り行きが挿入される。(中濱が処刑って厳しい。扇動(言葉)って権力者にとっては怖いものなのね。)女相撲は名前も成り行きもなし。架空の人々だからだろうけれど、アナーキストは名前が残るが女相撲は残らないのかと何だか複雑な気持ち。

大正デモクラシー、モガ、モボとか、そういうイメージもあるし、大正から昭和初期の激動期は、幕末・明治維新に劣らず面白そうだ。
(2019/07/06 高知オフシアターベストテン上映会 高知県立美術館ホール)

おまけ
かつて、大相撲の土俵に上がった女性がいた。地方巡業で起きた前代未聞のできごと

50年後のボクたちは

とても気持ちのいい、思春期全開のひと夏の冒険もの。音楽のセンスもいいし、あんまりギラギラしていないヨーロッパの夏の風景も美しい。風車とかトウモロコシ畑とか沼地とかゴミ山とか、へぇ~、こんなところがあるんだとヨーロッパの今が目に新しい。プロローグの次の場面はベルリンの中学校の教室なんだけど、アメリカ人がドイツ語を話している????ってな感じで、ビックリするくらい生徒の顔も服装も教室の雰囲気もアメリカっぽい。主人公の少年の家がプール付きの一戸建てで子ども部屋も広々なんて!でも、アメリカっぽいのはそれくらいだった。お昼をご馳走になったお家(カトリック?)の周りの様子とか、その後、警察から逃れて自転車とともにさまよう林の感じは今までのヨーロッパ映画で見た感じ。それとロシアから移住してきた男の子が、ときどき美男子に見えた。魅力的な子だった。

不思議だったのは、主人公が変人とされていたこと。頭では少数派がのけ者にされるときの言い訳の「変人」なんだろうとわかってはいても、私の変人の範疇には入らないので違和感があった。また、アルコール依存症の母のことを書いた作文を担当教師が罵倒していたのには驚愕した。あまりに理不尽。教師でさえも変人と思えるほどのキャラクターなのか!?そうとは思えないのに。観客である思春期の(特に少数派で「大人はわかってくれない」と感じている)子どもに共感を得るための方便だろうか?
あまりこだわる必要のないところが気にかかってしまった(^_^;。

とにかく子どもが見ても大人が見ても面白い作品だと思うが、見た大人は子どものやんちゃに対しては寛容にならねばと思うだろう。(もちろん、車を盗られて目茶苦茶にされた人は怒って保護者に賠償を求めるべき。そうしないと主人公のためにもならないと思う。)同時にコンビニの冷凍庫に土足で入った写真をネットにアップしただけで、その店がつぶれるという異様な潔癖社会はあまりに不寛容だと思ったことだった。
(2019/07/06 高知オフシアターベストテン上映会 高知県立美術館ホール)

ドローン・オブ・ウォー

『ダカタ』のアンドリュー・ニコル監督とイーサン・ホークのコンビ作。
これは問題作だ。作品の始末が悪い。100%のエンターテインメントとして作られた作品なら、地球の反対側で性的虐待を繰り返していた人物をアメリカ軍のドローンで攻撃し、溜飲を下げる主人公というのも「あり」かもしれない。しかし、閉鎖的空間で昼夜を問わず(昼夜がわからなくなる)無人機で爆撃し、目標以外の民間人を巻き添えにしたうえ、一体一体の成果を確認せねばならず、「あー、また戦闘機をかっ飛ばしたいよー」という望みは絶たれ、つらい任務のことは話せないし話したくないから妻も理解してくれず家庭は崩壊で「苦しいよー」という作品として作られているので、そんなことで溜飲を下げてもらっちゃ、困惑以外の何ものでもないのだ。善意に解釈すれば、「平気で私刑にして溜飲を下げる。アメリカ(人)の正義感なんて高々そんなもんよ(自嘲)。」という作品になるはずが失敗したのかもしれないが。

数年前、平和を希求するものは軍事を知らなくてはならないと気がついたが、その後、気がつく前と後で情報量がまったく変わらないままということにも気がついた。そこで本を読むでもなく映画に走るのがワタクシらしいところ、眉につばを付けながらでも『ドローン・オブ・ウォー』を見たかった。見てよかったのは、楽な殺人と思っていたドローン殺人が精神的に苦であるとわかったこと。どうやら、成果の確認が苦につながっているらしいこと。確認の必要がなければ楽なのか???

一応、どこまで事実か心当たりを検索したらあった。
スパイク通信員の軍事評論映画評『ドローン・オブ・ウォー』によると、この映画は無人機の操縦士は人手不足で米空軍がボーナスを増額したりして引き留めに躍起になっている事実を反映しているとある。また、成果の確認のために心的外傷を負う操縦士もいるようだ。(2015年当時の情報)

そして、誤爆関連で口直しの映画(^o^)
『イーグル・アイ』
(2019/04/07 DVD)