ハーベイ・カイテル、ジェフ・ゴールドブラム、ティルダ・スウィントン、わからんかったー。化けたな!
綺麗な砂糖菓子みたいだったなぁ。おもちゃ箱みたいでもあった。凸凹師弟が、いろんなところを走るシルエットが目に焼きついてる(笑)。
本当の本当に暴力反対、ファシストには不服従。完璧な人間はいないから、どんな欠点があっても肝心要がずれてない人物はチャーミングで頼もしい。欠点さえ美点に見える。
そして、物語は語り手と聴き手がいてこそ成り立つ。ウェス・アンダーソン監督は、きっと観客に感謝しているね。
セリフが多くてついていけなかったので、DVDの吹き替えで今一度楽しみたい。
カテゴリー: 映画の感想
百円の恋
妹に負け、同僚に強姦され、恋人を横取りされ・・・の負け犬人生。それは(一度くらい)勝ちたかったでしょうとも。でも、一子(安藤サクラ)の長~いファイトに感動したよ。クライマックスに試合って必勝パターンだなぁ(笑)。「エイドリア~~ン!!」・・・・って一子のエイドリアンは、狩野(新井浩文)なのだった。手をつなぐ後ろ姿が微笑ましい。
背中をボリボリ掻いたり、自転車を無断拝借したり、コンビニでおつりを募金したり、残りのお弁当をあげたり、勝負下着を身につけたり、肉喰って泣いたり、一子、いいキャラだった。蝶のように舞い蜂のように刺す。カッコよかった。
監督:武正晴
(2015/05/23 オフシアター・ベストテン上映会 高知県立美術館ホール)
百日紅 Miss HOKUSAI
久々に好きな作品に遭えてとても嬉しい。だけど、いわゆる感動作ではない。芸術家の話としても、女性が主役の話としても、家族の話としても、江戸風俗の話としてもなんだかピントが合わない。好きな作品なのに焦点不明では落ち着きが悪いので、自分なりにどこにフォーカスするかを考えて、これは「見ること」(あるいはsound and vision、若しくは感覚)についての作品だと思いつくと、私としては非常に据わりがよろしくなった。
北斎のところの居候善次郎は、絵師なんだから意識してものを「見る人」だ。北斎とその娘お栄は、意識して「見る人」なのはもちろん、「見える人(見えすぎる人)」でもある。お栄の妹お猶は、盲人で「見えない人」だ。
お栄が「見える人」なのは、北斎から受け継いだ才能のような気がするが、北斎は描きたいがための欲が高じて「見える」のではないだろうか。お栄には、欲はあまり感じられない。初五郎と芝居を見るチャンスと乙女心をときめかせていたのに、見事に失恋して、芝居の切符(木札)を隅田川に捨てたのはもったいないことだった。芝居なんていい画題なのに。また、北斎、善次郎、国直がそろってどこぞの花魁(だっけ?)の倶利伽羅もんもんを見に行くのに、お栄はあまり関心がなさそうだった。男のスケベ心を抜きにしても、どんな倶利伽羅もんもんなのか、見たくはなかったのだろうか。絵師として勉強になるだろうに。つまりは、自分が描けると思ったものについては、それ以上に「見る(知る)」気が起こらないのだろう。枕絵が描けてないと思ったから陰間茶屋にも行ったわけで。
北斎はもっともっと描きたいし、だから、もっともっと「見たい」のだと思う。その強欲が、お猶の分の視力までも奪ったのかもしれないとつぶやく。お猶が耳が聞こえないとかの病気だったら、北斎も怖がらずに娘に会えたのではないだろうか。「見えない」恐怖は、娘への愛情よりも大きかったのだろう。
当のお猶にとっては、「見えない」ことは恐ろしくも何ともない。橋の上で下で色んな音を聞いたり、冷たい水に手を浸したり、雪の中で追いかけっこをしたり、そして、タライの中の金魚を見たりもする。
結局、私にとっては見ることの素晴らしさに溢れた作品だった。黒雲の中の竜も、夜中の町を飛ぶ伸びた手も、芙蓉も百日紅もされこうべに見えた白木蓮も、陰も日向も、北斎漫画の筆さばきも、ひるがえる裾も、甘酒屋の婆様の足取りも、人を踏みつけて行った仏像も、いつの間にか大きくなった犬も、あらゆるものが愛しい。「見ること」が好きな映画ファンは、必見だと思う。
監督:原恵一
(2015/05/20 TOHOシネマズ高知3)
寄生獣 完結編
こんなに画面が暗かったっけ?前編もそうだったけど、あんまり綺麗な作品じゃないなぁ。寄生生物5人合体版(浅野忠信)、カッコいいー!
人間とは?地球における人間の存在意義とは?環境を破壊して他の生物にまで迷惑を掛けて増えすぎなんじゃないの?そういう壮大な哲学的テーマと、主人公泉新一(染谷将太)と寄生生物ミギー(阿部サダヲ)の友情の物語が完結した。全てをしゃべりつくし、何だか薄っぺらい感じだ。それにあのエピローグは蛇足に思えるんだけど。浦上(新井浩文)がどこへ行ったのか気になって気になって(笑)。
監督:山﨑貴
(2015/05/16 TOHOシネマズ高知3)