田辺さん

還暦のお祝いに
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生前の田辺さんに「お葬式は伊勢崎町の教会でやるから来てね」と招待されていたので(仮に招待がなくても)行ってきた。お堂に入りきれないほどの人が集まっていた。牧師さんは、強烈な個性の人、子どものように純粋な人と語った。また、お友だちが語ってくれたエピソードで、風に舞いあがったチラシを追いかけて車の行き交う電車通りへ飛び出したというのには、皆が思わず笑った。

私の職場では「映画のおじさん」でとおっていた。仕事中だから気を遣ってくれて、なるだけ短時間で、ささやくようにして映画の案内をしてくれた。それでも核心めいた話になると自然と大声になった。
田辺さんから信じられないような話を聴くこともあった。例えば、小夏の映画会で『海と毒薬』を上映したときアメリカ人が来ていて、映画の中で日本人が米兵を生体解剖していたことについて、「そんなことをしていたのか!」とものすごく怒られたと言うのだ。それで、「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝罪して、「二度とこんなことがないようにしますから許してください。」と謝り続けたそうだ。もし、その方がこの一文を読んでおられたら、事実と違うと思われるかもしれない。ただ私は田辺さんにとっては、このとおりだったのだと思う。感じたことを感じたとおりに話す、自分の心に正直な人、それが田辺さんだった。

田辺さんを主人公に映画を作ったら、きっと上質の喜劇になると思う。下手な喜劇は笑っておしまいだが、本当の喜劇は人に生きる力を与えてくれる。窪川での原発騒動、離婚に裁判。頭を抱える大変な出来事なのに、田辺さんだとお腹を抱える出来事になってしまう。長年の自主上映活動での友人知人の他にも様々な交流があり、各所で田辺オーラを発し、旋風を巻き起こしていたことと思う。経済的には苦しいと思われ、持病もあったのに、これほど豊かな人生があるだろうか。今は涙も出るが、思い出すたび元気をもらえる人だと思う。
(シネマ・スクウェア 2016年9月号)

追記

シネマ・スクウェアには、ヤマちゃんとシネマ・サンライズのガビーさんの追悼文が載っていた。
掲載文とは異なるかもしれないが、お二人ともwebにもアップされているので、ぜひ、ご覧ください。
ヤマちゃん九月十日に急逝した田辺浩三さんのこと。
ガビーさん追悼 田辺君へ

追悼文を書くときは、様々なことが思い出されて泣けてしょうがなかった。書いたら字数オーバーで泣く泣く削った(笑)。

私から芸術家と言われて田辺さんは大層喜んでいた。他の人から「あんまり、おだてられんでー」と言われたこともあった。だけど、本当にそう思ったんだからしょうがない(笑)。還暦のときの上映会では、赤い頭巾にちゃんちゃんこで、自主上映は自己表現だと思っているのでこんな格好でやりますと言っていた。そのレベルなら私は「アーティスト」くらいに思う。「芸術家」は私にとってちょっとニュアンスが異なるのだ。芸術家には一種の狂気がある。上映したい作品(というのは田辺さんにとっては主に他者に観てもらいたい作品(園子温作品は田辺さんが観たい作品))があってもフィルム代がないから、なかなか叶わない。それでも何とか上映しようとする情熱と行動力が凄まじかった。描くしかない、描かないと死んでしまうゴッホと同じだと私は感じたのだ。だから、小夏の映画会最後の上映会で「あらたな形でまたやろうと思っている」と話していたとお葬式のときに聴いて内心「やっぱり」と思った。本当に最後の上映会になるとは思ってなかった。

田辺さんは他人の言うことを聴かないというのが定説となっている。これは私が感じていたこととは違う。私は田辺さんは対話ができる人と思っていた。オフシアター・ベストテン選考会でも他の人の意見を聴いたうえで、異なる意見を述べていた。私の印象では他人の言うことを聴いているが頓着しない感じだ。うえの『海と毒薬』のエピソードは頓着しないわけにはいかないケースだが、「聴かない」人であれば「二度とこんなことがないようにしますから」とはなかなか言えないと思う。暴力や争いが嫌いで苦手だからこそ、聴けて話せるようになったのではないだろうか。そんな田辺さんを密かに尊敬していた。

あとはちょっとしたことだが、追悼文に書きかけていたのは、インドと追悼上映と誰が田辺さんを演じるかということ。
数年前に念願のインドに行ってきたと言ってお土産を二つもいただいた。インド!?本当のインド!?と驚いた。旅先で私のことを思い出してくれたのね。旅のお土産は嬉しいものだ。田辺さんにはいろんなものを頂くばかりで終わってしまった。
もし、追悼上映会があるなら作品は何がいいかな。反核原発がらみで『生きものの記録』とか、田辺さんが好きな映画なら『フォロー・ミー』。他にも好きな映画はたくさんあったろうけど、もっと聴いておけばよかったなぁ。
田辺さんを主人公に映画を作るとして、誰が演じるか。これは楽しい難問だ。
亡くなった後も楽しませてくれる。やっぱり希有な人だ。

これからのお楽しみ

空蝉
ノミじゃないですからぁ(^_^;。

『X-MEN アポカリプス』と『ターザン REBORN』のムビチケを買いました。『X-MEN』は、若教授の髪の毛問題が気になって・・・・、というか若返りシリーズは本当に楽しみ。
『ターザン』の方は、ジャングルを裸で行き来するのは枝だとか棘とかで擦り傷切り傷が気になるので、どうしようかと思ったけど、ターザンて英国貴族だったの???「アーア、ア~~」のイメージだけで何も知らなかったことに気づき、どういう話か興味が湧いたので。
『シン・ゴジラ』も見る気になったので、なんか忙しくなるなぁ。

あたご劇場では『さざなみ』が面白そう。予告編のシャーロット・ランプリングの表情に早くも感動のさざなみが・・・・。『さざなみ』の次に上映される『地獄の黙示録』の予告編では、若きハリソン・フォードが登場して、予告編の作り方に早くも懐かしの黙示が(笑)。そして、サイモン・ペッグの『ミラクル・ニール』の予告編では、早くも奇跡の可笑しさがこみあげて来たのでした。

「鬼の対談」へリンク
地獄の黙示録 特別完全版(1)
地獄の黙示録 特別完全版(2)

C階段

eiga.comの藤山直美に阪本順治監督がヘアヌード要請!?「このおっさん、何考えているか分からへん」を読んで笑った。『顔』以来16年ぶりのタッグという新作『団地』、見たいな~。
その記事の下あたりにイザベル・ユペール主演、フランスの団地映画「アスファルト」9月公開というのもあった。「団地」つながりで2本立てにしてもらえたらイイな~。フランスにも団地があるのか、パリのアパートとはまた違うのかな?などと思いを巡らせているうちに、思い出したのが『C階段』(ジャン=シャルル・タケラ監督/1985年)だ。

C階段趣は異なるけれど日本の長屋話みたいな人情もの。皆の共有スペースである階段が長屋の井戸端にあたると思えばいいだろうか、C階段を使う住人の悲喜こもごもが描かれている。
主人公の若造(気鋭の美術評論家)がなかなか魅力的だ。エライ生意気で「ボッシュ礼賛、ルノアール痛罵」、とんがっていて(金持ちのぼんぼんというのを隠している)皆に嫌われそうなんだけど、育ちのよさでしょうかねぇ、ワルぶっても憎めなくて人の良さが透けて見える。でもって子どもには懐かれてしまう(^Q^)。

ボッシュ 快楽の園この映画で初めてボッシュという画家を耳にした。気持ち悪いけど、笑っちゃうくらいに面白い。

ルノアールの方は聞いたことも見たこともあったけれど、その頃の私は主人公と同じくルノアールのよさがまったくわからず、その生ぬるさが嫌いで、裸婦像のありえない豊満さに引き気味だった。(今となっては「ありえないこともない」と身をもって感じているが。)だから、ルノアールに関しては主人公に同感だったわけだが、C階段で人にもまれて角が取れてきた主人公は、「じょうろを持つ少女」を見て感動し、素直な涙を流すのだ!更に驚いたことに、私までも「ルノアールっていいなぁ」と感動していたのだ。それほど「じょうろを持つ少女」は美しかった。輝いていた。以後、私のルノアールを見る目は変わった。

この仕掛けというか演出は、その頃から感じていた。C階段とアパートは暗く閉塞感(セットっぽい)があるけれど、「じょうろを持つ少女」は明るく開放感のあるシーンになっていた。もう忘れてしまったが、音楽も付いていたかもしれない。とにかく、この絵を美しく印象的に見せることに作り手はかなり心を砕いていたと思う。おかげでルノアールの絵の大らかさ温もり、日常(人生)への肯定感を感じ取れるようになった。

ラストシーンは主人公が遺灰を撒くシーンだったと思う。遺灰撒きシーンで今思い出せるのは『C階段』『君がいた夏』『マディソン郡の橋』くらいだ。コレクションしていたのに・・・、やっぱり記録していかないとダメだなぁ。

人情もの、主人公のキャラクター、ルノアール、遺灰撒き。映画史に残らなくても大好きな作品だ。

じょうろを持つ少女