刻-moment- 石元泰博・フォトギャラリー

石元泰博・フォトギャラリー
これは素晴らしかった!!!必見です。3月1日(土)まで。左の画像は、長形3号のハガキで、裏面には次のうたい文句が。
「うつろいゆくもの、滅びゆくものの美しさを、朽ちてゆく落ち葉や空き缶、刻々と姿を変える水面や雲に映し出した、石元泰博の哲学的写真集『刻-moment-』(2004年発行)から、約100点をオリジナルプリントにより紹介します。」(個人的には哲学的とか言わない方がいいと思うけど。私は全然哲学しなかったし(^_^;。それに「うつろいゆくもの」「滅びゆくもの」とも思わなかったよーーー。ぶーぶー。ただ美しいと思った!シャープでクールで美しい!そして、ものの見方を変えてくれる。もっと水をよく観ようと思った。もっと落ち葉を、もっと雲を、足跡をよく観よう!)

アスファルトと同化した落ち葉や空き缶。波にみえる雲。水に見えない水。1960年代から2000年代の人の流れ。あれですよ、あれ。芸術は健康にイイ!運動をした後のような清々しさ、血行が良くなって疲れが吹き飛ぶ、あれです。
秋には石元作品の常設展がオープンする予定。ちょー、楽しみ!石元さん、たくさんの素晴らしい作品を寄贈してくださって本当にありがとう。
(2014/02/27 高知県立美術館)

注)「刻」と書いて「とき」と読ませています。
石元泰博フォトセンター

ミレー展


ボストンから種をまく人がやってきた、というわけで行ってきた。
先に観た友だちが地味だったと言っていたけれど、地味だった。目玉の「種をまく人」「羊飼いの娘」「刈入れ人たちの休息<ルツとボアズ>」のうち「羊飼いの娘」のよさがわからなかったけれど(近くで見すぎたかも)、他の二作品はどちらもとてもよかった。

「種をまく人」は活動大写真だ。種をまきながら坂を勢いよく下ってくる。土なのか種なのか、なんか飛び散っている。人物のどっしりとした重みも感じる。遠景の牛と人は、実物では遥か遠くに見えて画面に奥行きを作り、縦1メートルくらいの絵なのに思い返すと巨大スクリーンに対峙していたかのような印象だ。
「刈入れ人たちの休息」は、はっとするほど明るく繊細な描き込みで、人物や積み藁やら何やらの情報量が多く、状況や物語が見えるようでもあり飽きない。

ミレーは初めて名前を覚えた画家だし(駄菓子屋に「落ち穂拾い」が掲げてあった)、ゴッホが尊敬していたので、ぜひ、観たかった。確かに地味だけど、当時の生活を想像してみたり(うえの画像の「洗濯女」は、月が出てるけど日の出前だよねーとか)、また、音声解説のお陰もあって面白かった。

ところで、コローって上手なんだろうか?きれいな絵なんだけど、紙細工みたいな感じで立体に見えなかった(^_^;。空間が空間として見えないというか。絵というのは、本当に何でもOKだと自分の絵にも自信が持てた。←描いた気になっていた。
(2014/02/27 高知県立美術館)

草間彌生「永遠の永遠の永遠」


2004年から2007年にかけて制作された「愛はとこしえ」シリーズは、モノクロームの線画だったので自分が教科書の端に描いた落書きを思い出したりした。もちろん、スケールも根の詰め具合も独創性も桁違い。へんてこりんなものが画面に隙間なく描出されている。そういう1枚1枚が更に壁いっぱいに並べられている。ある種の規則性(機械的な規則性じゃなくて有機的な規則性?)が生まれていて、部屋全体を見渡すとなんだか美しく見える。「天井にも床にも並べちゃえば~」などと思っていると、「チューリップに愛をこめて、永遠に祈る」でやられた(^_^;。入り口と出口のある白い部屋の内側が赤い水玉で四方八方おおわれて、これまた全体が赤い水玉の三つのチューリップが茎がねじれて咲いている。なんちゅう圧迫感。長時間いると気が狂いそうなので第一会場は早々に退散した。

つづく第二会場は、2009年に始まった「わが永遠の魂」シリーズがメインの展示で、「チューリップに愛をこめて、永遠に祈る」に匹敵するくらいの圧迫感があった。ネガフィルムのようなめったにない色の組合せを長時間見ていると脳髄が麻痺しそうな感じがした。エネルギーのマグマが四方からのしかかってくるようで、ここも早々に退散し、最後の展示「魂の灯」に並んだ。

並んでいると「注意書きをお読みください」と言われた。注意書きは、白線の内側から出ないように、また、怖くなったり気分が悪くなったりしたら内側からドアをノックするようにというような内容だった。ものすごく身構えてその白い立方体の中に入り、後ろでドアを閉められたと思ったら、宇宙が広がっていた!これぞ、「魂の灯」。これぞ、「永遠の永遠の永遠」。暗いガラス張りの部屋は無限に広く、水玉は電球に変換されて静かに色を変えながら灯りつづける。血行がよくなり体中に酸素が行き渡り、平静にはるか彼方の地平線まで見晴るかすような心持ちがした。こんなとき、芸術は心身の健康によいと心から思う。

売店で商品となった草間彌生グッズを見ると、「わが永遠の魂」に感じた圧迫感もなければ、「魂の灯」のような心洗われるような力もなかった。ユニークであることの面白さや楽しさを感じるだけだ。
『天使の分け前』上映会のとき撮った写真や、うえの写真のとおり、美術館全体を草間ワールドとしているのは良い試みだと思った。何より楽しい。導入部は楽しく、ちょっとかじると消化不良、しかし、最後はすっきりと。なかなか良い展覧会だったと思う。

(2013/12/01 高知県立美術館)

イサム・ノグチ庭園美術館


我が家の昭和一桁生まれは、2010年に二度入院したのを機に行商を引退し、主夫業に専念している。そのかたわら年に何度か日帰り旅行をして、冥土の土産の収集をしているが、イサム・ノグチ庭園美術館はツアーもないし、予約が必要で場所もわかりにくいのでいっしょに行ってきた。
観覧できるところは、小道を挟んで北と南の区画に分かれている。石垣で囲まれた北の区画にはアトリエと屋外展示作品群、同じ区画の少し奥まったところに展示蔵(と作品)があった。南の区画にはイサムが暮らした家屋と庭、数メートル離れたところから彫刻庭園への登り口があった。
庭園美術館というだけあって、北の大きな樹木(私の大好きな柳も)や庭先の竹林などとてもいい感じだ。作品だけでなく、蔵や日本家屋や内装などの全体にセンスがあり、そこにいるだけで楽しくなってくる。一番よかったのは彫刻庭園だ。急な石段を登っていくと芝に覆われた開けた場所に出る。そこには石舞台があり石舞台から向こうを見るとユーカリの巨木がそびえている。木の反対側にはこんもりと丸い丘が築かれていて、ぐるりと周りながら更に登ると視界が一気に開け町が見下ろせ五剣山も望める。日本人ならお弁当を広げ、おにぎりを頬ばりたくなる場所だ。黄緑色の丘には吾亦紅がたくさん咲いていた。頂上にはイサムの作品が鎮座していたが、他の石は自然石なんだそうな。自然に出来たと思えない穴が開いていたりしたが。表面に出ているのは三分の一で他は地面の中という長さ6、7メートルはありそうな石もここまで運んだという。石の配置と丘のこんもりぐあいとロケーション。水の通り道に敷かれた小石。広すぎず狭すぎず、居心地のいい秘密基地のような場所だった。

(2013/11/16 香川県牟礼町)