ジャンポール・ゴルチエのファッション狂騒劇

『ジャンポール・ゴルチエのファッション狂騒劇』の感想を毛筆で書いた画像

言葉とカット割の洪水

むかし、「装苑」という雑誌で楽しみだったのは、美少年好きの長沢節さんのシネマエッセーと、デザイナーの卵さんがデザインした服のページだった。また、今でもたまたま点けたテレビでファッションショーなどを放送していると、つい見入ってしまう。私はファッションセンスもなくおしゃれでもないけれど、そのぶっ飛んだデザインは見るだけでとても面白い。美術の中でも前衛だと思う。
ゴルチエは『フィフス・エレメント』の衣装なんかも担当していたそうだし、新装開店したキネマM(ミュージアム)の様子見も兼ねて行ってきた。

映画はゴルチエの自伝的レビュー(revue)の制作をドキュメントしたもの。ゴルチエが寸分の空きなくしゃべりまくり、ゴルチエがしゃべらないときはスタッフがしゃべりまくる。音楽もなりっぱなしで、カット割が激しく、たいへん騒々しい作品だった。10人中楽しめる人は3人くらいか???私は、映画としてはあまり面白くないかもと予防線を張っていたので、ゴルチエの発想を大いに楽しんだ。でも、数が多いは、じっくり見せてもらえないはで、あまり頭に残ってない。ただ、マドンナの尖ったブラジャー(?コルセット?)の衣装はゴルチエだったとわかった。それと、ボーダー柄のTシャツを着た彼は、垂れ目のピカソみたいだった。

キネマMは音よし、映像のキレよし、椅子の座面やや固し、バリアフリーでないのが意外だった。飲み物とポプコーンを売っているみたい。新しい臭いがしたので頭が痛くなったら嫌だなと思っていたが痛くならなくてよかった。
(2023/12/18 キネマM)

福田村事件

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知が負け情が勝つ問題

香川県の被差別部落から行商に来ていた一行が、関東大震災の後、千葉県の福田村で朝鮮人と間違われて9人が虐殺された事件を基に作られた作品だ。シベリア出兵、朝鮮の三・一独立運動、被差別部落解放の水平社運動が巧みにドラマに組み込まれている力作で感動した。

戦死者の遺骨での帰還や残された妻たちの心の隙間、空威張り自警団会長、朝鮮人と交流を求めていた者の挫折などが時代背景としっかり結びつけられていたと思う。また、新聞編集部長と若い記者を登場させることによって現在に繋ぐ客観的な視点も確保されていた。関東大震災後のデマにより犠牲となった劇作家(社会主義者)、飴売りの朝鮮人なども印象に残る場面となっていた。重層的によく考えて作られた作品だと思う。
特に、村人に囲まれ朝鮮人に間違われたら殺されかねない逼迫した状況で、行商一行の親方(永山瑛太)が「朝鮮人なら殺してもいいのか!」と言うのは、この作品に必要不可欠なセリフであり、親方がこのセリフを言うのに納得感のある人物に作られていたのには唸った。この親方は、一行の誰かが「朝鮮人の売る飴だから毒入りかも」と言うのを耳にして大量に飴を買ったり、効能の怪しい薬を障害者に売ったときも新入りの子どもに、「自分たちは更に弱い立場の者から金儲けするしかない」と言った後、「せめてもの罪滅ぼしや」とすれ違う巡礼者におにぎりを丁寧に差し出していたのだ。

それにしてもデマを信じ込み、不安と恐怖から過剰防衛に至るのは今でもあり得ることだ。(新型コロナへの不安と恐怖からマスク警察が発生したり、政府発表やそれについての無批判・無解説なメディアを信じ不安と恐怖がつのり、戦争方向へ荷担することも考えられる。)
知らなかったり先が見えないと不安になるのだが、仮に多少の知識や見通しがあったとしても理性に見放され感情的になるのが人の常だから、なかなかの問題だ。群集心理かなんだか知らないけれど一億総火の玉にならないためには、意見の一致をみない皆バラバラのへそ曲がり集団になるのが理想的なような気がしてきた。私自身は政府の言うことを鵜呑みにしないことと、「この状況を○○さんが見たら何と言うか」と何ごとも客観視できるようにしたいが、「○○さん」は誰にしたらいいだろう?
(2023/12/14 あたご劇場)

キャロル・オブ・ザ・ベル 家族の絆を奏でる詩

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篆書で「女」と三人の「子」

1939年のポーランド(現ウクライナ)、ユダヤ人夫婦が大家のアパートにポーランド人親子とウクライナ人親子が店子として引っ越してくるが、隣近所の国同士は侵略したりされたりで互いに快いはずもなく大人たちは適度な距離を取ろうとする。ところが三家族の子どもは女の子ばかりでたちまち仲良くなってしまい、それをきっかけに家族ぐるみの付き合いとなる。人間、いろいろ属性はあるが、国とか宗教の属性が一番やっかいなのかもしれない。ところが、子どもたちはそういうことからは自由だ。大人だって個々に知り合ってみれば、属性のバイヤスが正されるということなんだろう。
この映画は、国や宗教などの違いがあっても良し、バリアフリーの音楽(歌)で繋がりましょうという内容。

ソ連に占領されポーランド人が迫害を受け辛うじて娘は助かり、次にナチスドイツに占領されユダヤ人が迫害を受け辛うじて娘は残り、終戦時はソ連に再び占領され、子どもたちを守り抜いたウクライナ人の母(歌唱指導の先生)は理不尽にもナチスドイツの協力者にされシベリア送りになり、娘たちは1978年にニューヨークでの再会を果たすという大河浪漫でもある。ニューヨークで歌手になっていたのはウクライナの音楽一家の娘かと思っていたら、ウクライナ人の母が歌を教えたポーランド娘だと最後の最後にわかった。なかなかのフェイントだったが、これでこそ音楽が色んなものを越え人々を結びつけるという作品の趣旨にピッタリだ。

映画的な表現の美しさが乏しいのは残念だったが、凄みのあるシーンを一つだけ讃えたい。
足が不自由なウクライナ人の父は、小ホールでドイツ兵を前にギターを弾きながら「リリーマルレーン」を歌ったりなどして家計を支えていたが、レジスタンスに関わっており捉えられて処刑される。それを目撃した妻は、帰宅して子どもたちのワンピース(おそろい)を脱がせ、自分の着ていた服も脱ぎバスタブで洗う。浴室に渡した紐に掛けられた服からは雫が垂れている。浴室からこちらに歩いてくる母。シュミーズの4人が無言で抱き合う。
戦争で男たちがいなくなって残されるのは、おんな子どもだけではない。年寄りや身体の不自由な者などもいるだろう。わかってはいるけれど、ああ、おんな子どもだけになった・・・と思った。

『カティンの森』(2007年ポーランド)の感想←ソ連兵の描き方が、『キャロル・オブ・ザ・ベル』(2022年ウクライナ/ポーランド)とは異なるのでよかったら読んでみてください。ウクライナはロシアに侵攻される前もロシア系と内戦状態だったので、『キャロル・オブ・ザ・ベル』はソ連を完全に悪役として描いたのかも。
(2023/12/07 あたご劇場)

ゴジラ-1.0

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生きるで~!
役立たずOK!!

面白かった。ゴジラがめっちゃ恐かった。放射能を吐くところは原子爆弾を落とされたみたいで、見るのが辛い人がいるかもしれないが、尾っぽから青白い背びれが立ち上がっていくところなんか、怖カッコイイ。破壊するところも見れたし(ラジオの実況中継もグー)、ゴジラを深海に沈めたり浮上させたりする作戦もうまく見せられた感じ。結局、人間はゴジラには勝てないというのもよい。それにしても立派な胸筋だった。あまり足が上がらないのは普段は海にいるからだろうか。

主人公が特攻作戦から逃げ、ゴジラから逃げ、ダメダメぶりを発揮しているのもよかった。娯楽映画だからおしまいには発憤してめでたしめでたしとなるのはよいことだし感動して涙が出たけれど、近年の私の気持ちには実のところそぐわない。ライオンに喉笛をガブリとやられて息も絶え絶えのインパラ。生きるというのは、何かのために役だつとか役だたないとかに関係なく死ぬまで生きることだと思う。人が生きることに付加価値をつけようとするのは人間だから?生きるということに関しては、生物として程ほどに謙虚になった方がいいような気がしている。

安藤サクラは凄い。
神木隆之介くんも。「お願いします」と言って机に額をぶつけるところは、笑っていいよね?
(2023/11/30 TOHOシネマズ高知9)