窮鼠はチーズの夢を見る

TOHOシネマズでBL。主演が関ジャニ∞で一番の男前の大倉くん♥。原作は読んでいるけど、程よく忘れている。行定監督は嫌いじゃないし。というわけで見に行ったら、今ヶ瀬(成田凌)、可愛いよ~。恋する男子は乙女やね!
なかなかの恋愛地獄だったけれど、完全に人ごとで見れたのでよかった。

今ヶ瀬は、長年の片思いから脱し、やっとの思いで最高の幸せをつかんでおきながら、相手を信じられず無用な嫉妬をして自ら幸せを壊し、苦しむ。一方、大伴恭一(大倉忠義)は、今ヶ瀬の苦しむ姿に耐えられず、最悪の言葉で思いっきり振る(それで相手が諦め、苦しみから解放されるとも思っていた)が、別れた後に恋しい思いが募ってくる。
結局、この物語は、大伴が恋を知って、来る者拒まず去る者追わずのモテすぎ症候群を卒業する話のような気がしてきた。
「心底好きになるということは、その人だけが例外になること」という意味のセリフは、今ヶ瀬が言っていたとおもうけど、「なるほど!」だった。タイプじゃなくても好きになることがあるし、論理の世界じゃないね。でも、「振られたら次へ次へ」で行った方が世の中まるく収まるよ。

それにしても、しばらく見ない間に大倉くんが大人になっていてビックリ。なんか陰のある冷たい感じと、今ヶ瀬が一目惚れする笑顔のギャップも魅力やわ~。流されそうに見えないので「流され侍」の大伴役は難役だったと思う。関ジャニ∞(ジャニーズ)を退所するような噂を聞いたけど、映画に出てくれたら会えるね。すばる君は音楽方面なのでご無沙汰。元気にしてるかなぁ。
「トミーとマツ」のトミー(国広富之)が、意外な役で出演していて面白かった(^o^)。
(2020/09/15 TOHOシネマズ高知7)

海辺の映画館 キネマの玉手箱

ははははは!と笑いながら涙を流し、
(ToT)泣きながら、(^Q^)笑い。
トリュフォーはわかったけど、茂ってだれよー!?馬場毬男もわからんーーー!

その映画が面白いか面白くないか、始まって3分も経たないうちにわかる。『海辺の映画館』は始まった途端、斬新!こんな表現方法があったのかとワクワクした。全くもってオープニングという言葉がふさわしい。言葉がどんどん被さってくるところが、どの作家とも異なるところだ。期待に胸をふくらませながら、これが大林宣彦監督の遺作、遺言(?)と思うと泣けてきた。

先月、高知県立美術館ホールで見た『ÉMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』をバージョンアップしたような四次元コラージュ作品で、爺・ファンタ(高橋幸宏)が登場することからわかるようにファンタジーなのだ。だから裸が出ても乳首は出ない。そのかわり思わぬところで、ヘア(ちょび髭)が出る。大林監督が好きなものと嫌いだけれど忘れてはならないものと残したいもの託したいことが詰まっている。映画の迷宮で爺さんから、えらい玉手箱を渡されたものだ。

瀬戸内キネマの閉館オールナイト上映の観客である三人の男性が、スクリーンに入ったり出たりする。『カイロの紫のバラ』の元ネタとなったのはバスター・キートンの映画だったか・・・・、映画ファンにとってスクリーンを出たり入ったりするのは常識だ。しかし、大林監督は常識以上のものを三人に背負わせた。映画で万物(特に歴史)を学び、現世の今後に生かせということだ。
私が映画を観始めた1980年代、アメリカは世界の警察と言われていて、自国の正義を振りかざし世界中で我が物顔に振る舞っていたので嫌な国だなぁと思っていたけれど、アメリカ映画で観るアメリカ人はどの映画でも私たちと大して変わらない人たちじゃん、そういう映画を観てアメリカ人も楽しんでいるわけで・・・・と考えていくと、アメリカの政府とアメリカ人は違うのだと思えてきた。それで「北朝鮮」と言うとき、その政府と国民を分けて考えることが出来るようになっていたので、拉致問題が公になって世間が北朝鮮を酷く言うのに同調しなかったものだから友だちには不思議がられた。映画で学んで生かすって、そういうことですよね、監督?

「桃栗三年、柿八年、柚は九年で成り下がり、梨のバカめは十八年」は、どの大林作品だったか。今作では中原中也、イイネ!と思った。それと「雨降りお月さん」も。美しい歌だ。うん十年ぶりに歌った。字幕もイイネ!外国語がわからなくても耳が聞こえにくくてもOKだ。川島芳子(伊藤歩)に「好きです、ヨシコさーん」ってどこかで聞いたことがあるなあと、林家三平(先代)を思い出すのに映画が終わって30分くらいかかった。白虎隊は有名だけど、娘子隊は初めて聞いた。この映画で一番古い時代はいつだっけ、戦いとしては宮本武蔵の決闘かな。思えば、日中戦争、太平洋戦争でも日本刀は欠かせなかった。三島由紀夫以降も日本刀で人が殺されている。美術品で人を傷つけるのはやめよう!バトントワリングはOK!
(2020/09/09 TOHOシネマズ高知8)

追悼:大林宣彦監督

娘は戦場で生まれた

殺される側からのレポート。やはり、子どもが傷つくのは胸が痛い。もし、現場にいることになったら爆撃の音には耐えられそうにない。主に病院で撮影されているので、運び込まれる傷ついた人たち(意識不明の妊婦さんを帝王切開する場面もあった)や、病院を狙って爆撃する非道(粉塵に穴の開いた壁、そして、またしも傷ついた人たち)が映し出される。
それだけではなく、一個の柿に満面に笑顔のお母さんや、絵を描く子ども、歌う大人、結婚式、新居の美しい庭(ブーゲンビレアがあった)などの日々の営みも写しているため、私たちと変わらない人たちが酷い目にあっていることがわかる。

このドキュメンタリーの監督でありカメラマンであるワアド・アル=カティーブは、アレッポが政府軍に包囲され降伏する形で退去するとき、娘に故郷の記録を見せてあげるために撮影しておくと言っていた。しかし、当初の目的はインターネットに映像をアップロードして世界の人々に状況を知らせて助けてもらうことだった。だけど、パレスチナの人たち(沖縄も)がもう何十年も放っておかれているように、ワアドさんたちの殺される状況は変わらなかった。殺す側の情報に晒されている私たちは知らないのだ。知ってもなかなか行動に移さないのだ。

行動に移さない私には、ワアドさんと彼女の被写体となっている医師(夫)の選択がまぶしい(敬服)。トルコにいる父に会うため、二人はアレッポをあとにするのだが、引き留める父親たちをあとにして再びアレッポに戻るのだ。戦場は出るのも大変だが戻るのも大変。戻った理由は患者のためと言ってはいたが、仕事への使命感だけではないと思う。仲間がいるからじゃないかなぁ。仲間は裏切れないでしょう。心強いし。戻ってきた彼らを迎える人たちを見てそう思った。
このドキュメンタリーの最初の方からアレッポを出る人、残る人の話がでてきたが、出る人は難民となるわけだ。日本が戦場になったら、どこへ逃げよう・・・又はとどまるか・・・・って、そんなこと考えるより戦場にならないように考える方が先か(ははは)。

内戦前のシリアを旅行した人の話では、緑豊かでとても美しかったとのことだった。その他にも人や食べ物などよい印象しかなく、内戦の様子を見聞きして悲しがっていた。
(2020/08/31 ゴトゴトシネマ メフィストフェレス2階シアター)

彼らは生きていた

ピーター・ジャクソン監督が第一次世界大戦のドキュメンタリーを作った?あのホビットが、なぜ!?と思っていたら、最後に「従軍した祖父へ捧げる」とクレジットされて、「ひえー、ホビット君、そんな感心な人やったんや~(うるうる)」と感動した。直後に、イギリス帝国戦争博物館に依頼されて制作したと上映会の主宰者に教わり、それを祖父へ捧げるとは「ちゃっかりホビット~~」とまた別の意味で感心した。
そして、作品の構成や、兵士の笑顔と無残な死体のカットバックの繰り返しなどの編集や、何から何までピーター・ジャクソンの演出力に感服するような内容だった。

作品は端正。志願→訓練→戦場→帰還後の構成。仲間を失い捕虜と共感し、帰還して「しばらく見なかったけど、どこに行ってたの?」と言われてむかついたりなんだり。観ている間中、どうやって作ったのか考えていたが、だいたい思ったとおり。同博物館に収蔵されていたフィルムとBBCの退役軍人へのインタビューをシンクロさせた労作だ。退役軍人へのインタビューだけではなく、一部俳優にも声を当ててもらっている。砲弾などの効果音も作ってシンクロさせている。
やはり、一番おどろいたのは色つけだ。戦場だけ色をつけて、その前後はモノクロなのだが、カラーになった途端、あれ?まさか戦場場面は作り直したの???と一瞬思った。それくらい「今」のように映っていた。戦場に咲く赤い花も印象的で、11月になると英国の首相などが胸にひなげしのブローチをつけて戦没者を悼んでいることを思い出した。

元軍人たちはしゃべり続ける(ように編集されている)ので聴いていると疲れる。だいたいが楽しそうに回想していて、日中戦争を回想する日本の元軍人も同様だったような。初めは嫌でも慣れると楽しくなるのだろう。適応しないと心身がむしばまれる。慰安婦もどきがいたこともわかった。戦争は似たり寄ったりだ。
長らく戦場は、このドキュメンタリーの西部戦線のように塹壕から飛び出して敵地へ突撃するイメージだったが、ずいぶん様変わりしてきたものだ。戦場が様変わりしても戦争の本質は変わらない。美輪明宏さんが言うように「大量殺人」。直接的には何の恨みもない人同士なのにね。
(2020/08/29 シネマサンライズ 高知県立美術館ホール)