乙女~。挙動不審。ストーカー~。残酷~。
3回目。初めて観たのは高校生のときで、テンポが遅くセリフの少ない退屈な映画と思った。次に観たときはどう思ったのかな?感想を書いたノートを引っぱり出して読んでみたら、なかなかよう観てるじゃん。今回、アシェンバッハ(ダーク・ボガード)とアルフレッド(マーク・バーンズ)の遣り取りは字幕についていけなかったのだが、ノートには次のように書かれていて助かった(笑)。
芸術家は道徳的でなければならず、努力によってその芸術を完成させるという考えを友人に真っ向から反対される。天才は天才として生まれ努力はいらない。悪魔的な生活がその天才にみがきをかけるのだという風に。
アシェンバッハの芸術家としての敗北にも言及しているし、一人の少年に完全な美を発見し、その少年が彼の心を見透かしたうえで微笑み美しさを増すので、「敗北に拍車をかけたような出会い」とも言っている。
また、ベニスで感じた喜びや悲しみがきっかけとなって回想シーンにつながる演出にも気がついており、特にタジオ(ビョルン・アンドレセン)がつま弾くエリーゼのためにのエピソードでは、(タジオに声を掛けられない=娼館で何もできず帰る)アシェンバッハにえらく同情している。2回目に観たときの感想は、全体的にアシェンバッハに同調しているのが特徴だ。臆病者という共通点があるからだろう。
疫病の噂の真偽を確かめてタジオの家族を救おうと妄想するところなども悲しいと書いている。
しかし、次の一文を読んで私は爆笑してしまった。
若返りの化粧をほどこしてタジオの後をつけるが追いつけず、とりのこされるところも痛ましい。こういう老いた者の気持ち(若さは取りもどせない、さりとて若者についていくこともできない気持ち)が高校生ごときにわかろうものか。
ぶわははは。(老いた者の気持ちがわかる高校生の皆さん、スミマセン(^_^;。これは高校生の時分の私に向けて言っておるセリフなので許してください。)「おまえはいったい幾つや~!?」と思って日付を見たら25歳だった;;;;。微妙。このまま笑ってよいのか、よくわからない(笑)。25歳はお肌の曲がり角と言うから、今より年齢を気にしていたのかもしれない。
3回目の感想として付け足すことは、残酷の味付けについてだ。
アシェンバッハはベニスにやってきた船上で化粧をした男性に声を掛けられる。何て言ってたっけ?(最近、よく字幕を見落とす(^_^;。)とにかく、その男性を侮蔑の目で見やるアシェンバッハだった。また、一度、ホテルを引き払い帰ろうとしたとき、駅で行き倒れの男性を目にする。だれも構う者はおらず、瀕死のまま捨て置かれる。3回目ともなると、アシェンバッハが化粧を汗で溶かしながら客死することは始めからわかっているので、それを暗示するこれらのシーンが残酷に思えた。
それとやはり芸術についての映画だったと改めて思った。芸術家はブーイングにたじろがないだろう。傲慢とも思えるくらいに自分の作品に自信があるか、自分にはこれしかないと追い詰められているかなので(?)、他人の評価に振り回されたりしないのではないだろうか。その点、アシェンバッハは芸術家としても中途半端だった。
散々、敗北とか残酷とか書いたけれど、敗者にもちいさな幸せはあると思う。タジオを追いかけて一喜一憂する。話せなくても触れられなくても(それは妄想で叶えられる(笑))、苦しくても切なくても観ているだけで幸せってあるでしょう。
前回の感想によると「昼の太陽に照らされ汗は流れ化粧は黒く溶け、人知れず息絶える。」カットが印象に残ったらしいが、今回はアシェンバッハが目にしたはずの、右手は腰に左手は遠くを指さす彼の人の浜辺のシルエットが印象に残った。
MORTE A VENEZIA
DEATH IN VENICE
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
(こうちコミュニティシネマ 2012/10/17 高知県立美術館ホール)
ビスコンティの作品の中でも、なぜか「ベニスに死す」は苦手な作品で、ニュープリント版でありながら結局観にいきませんでしたが・・・
<敗北とか残酷とか書いたけれど、敗者にもちいさな幸せはあると思う。タジオを追いかけて一喜一憂する。話せなくても触れられなくても(それは妄想で叶えられる(笑))、苦しくても切なくても観ているだけで幸せってあるでしょう。
おお、この部分はまさに「桐島、部活・・・」のブラバン部長・宮部実果のためにあるようなコメントですね。彼女は別にストーカーをしているわけではないのですが、切々たる思いは「ベニスに死す」の主人公に通じる? 彼女にも、好きな男の子が他の女の子とキスしているシーンを見せつけられるという酷なエピソードがありましたね。格調高き芸術映画であれ、青春エンタメ映画であれ、人を恋する心は複雑で、取り扱い注意の厄介物だというのは同じこと?
ところで、驚くべきことに原作では宮部が想いを寄せるのは宏樹クンではないのですよ。また、屋上でサックスを吹くようなシーンも出てきません。映画部の活動も前田(神木)に集約されている感がありましたが、原作の方は小太りの武文クンが熱く映画を語って、結構活躍しています。エンディングも違っています。いかに登場人物の心理をビジュアル化するかに工夫をこらした、よく練られた脚本だと思います。
原作を読むと、桐島のキャラクターについての僕の先入観は打ち破られました。本の方は、それぞれの登場人物の主観で書かれており、これだけ個性の違うキャラを書き分けるのは若い作者ながら練達の技だと思います。一読の価値はありますよ。
って、「ベニスに死す」については何もコメントしなくてすいません。
『桐島、部活やめるってよ』のブラバン部長とアシェンバッハがシンクロしていたとは!驚いた~(笑)。言われてみれば、そうですね。観ているだけで苦しくて、ちょっと幸せ。ただ、やっぱり可哀想な度合いは、アシェンバッハがはるかに高いです。部長さんは若い分、次がある!
>エンディングも違っています。いかに登場人物の心理をビジュアル化するかに工夫をこらした、よく練られた脚本だと思います。
それはとても良いことですね。
脚本も絵の作りも映画的だと思いましたもん。映画的であるように意識して作った作品というのはよくわかります。
原作、ガビーさんのおすすめなら読んでみようかしらん・・・。
原作もジグソーパズルっぽいのかな。映画の方は、ジグソーパズルみたいにしたことについて、必然性がないという意見がほとんどで、ちょっと前のキネ旬でも評論家の方々に批判されていました。私は感想にも書いたとおり、グループが細分化されて、グループ内でも個々の思いはバラバラということの表現にピッタリだと思っていたので、よっぽど投書してやろうかしらと思いましたが、すぐ冷めました(笑)。←これを言う機会ができたので、ガビーさんに感謝です(^_^)。