タカダワタル的

タカダワタル・・・・、歌う落語家(笑)?
歌う詩人、歌う飲んべえ?飄々と生きているように見える。深いシワと諦めたような目の表情が、どうしてこんな顔になったのか不思議でしょうがなかった。人は声が細くなり、目に力がなくなって死んで行くが、この映画は高田渡さんの晩年だろうか。そう思いwikiを見たら、2005年に56才で亡くなっている。がーん。ショックだ。70過ぎのおじいさんと思って見ていたから、自分とたいして違わない年だったとは。

ふわふわと街を漂う姿も興味深かったけれど、ライブ中心のドキュメンタリーにしたところがよかった。リラックスできて前向きになれるライブだったことがわかる。寄席みたいな空気感だ。せっかくの寄席なのに(笑)、何を話しているのか聴き取りにくかったのは残念だ。でも、歌詞がわかったので本当によかった。
歌詞は詩になっている。平易な言葉が短く身近い。怒りと毒を完全に沈殿化し、美しく澄んだ言葉になっている。それがのんきなリズムとなだらかなメロディーで歌われる。バンドのアンサンブルもご機嫌だ。
「ブラザー軒」はハイライトシーンだと思った。どうやら亡くなった父と妹のことを歌っているようだ。カメラは歌う高田渡の顔にゆっくりズームインしていく。夢のように美しく、哀しさが沁みてくる。

「タカダワタル的」とはどんなことなのか、やっぱり考えてしまう。なかなか良いタイトルだと思う。
映画の中で柄本明は高田渡の生き方にあこがれても、ああいう生き方はなかなか出来ないと言う。それは自由を選択することの厳しさを言っているのだろうか?例えば、お金にこだわらない、お金から自由になるというのは、お金があってもイイがなくてもイイということであって、なくてもイイ生き方は厳しいから、なかなか出来ないという論理。
だけど、私たちは既に「タカダワタル的」なのではないかと思う。高田渡は詩人、歌手という表現者だから一般ピープルには確かに真似できないけれど、その歌のどれもが生活する人の視点から生まれており、大いに共感できる。今日の糧を探して地を這うアリンコ派でも、宵越しの金は持たないキリギリス派でも高田渡の歌がわかる人は「タカダワタル的」なのではないだろうか。

監督:タナダユキ
(2015/11/07 あたご劇場)

「タカダワタル的」への2件のフィードバック

  1. お茶屋さんの感想読んで、やっぱり観に行こうかな~と思いました。
    今週一杯ですね。(でも、10年も前に亡くなってたとは・・・)

  2. おすすめです〜。(^-^)
    聴き取りにくいところがあるのが残念でしたが、リラックス出来ました〜。

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