見ている間中、何かもやもやしていた。映友に聞くと、あまりにもリアリティに欠けるのでもやもやしたのだそうな。確かに、「それはないだろう」というところが結構あったように思う。例えば、田舎の警察所長に左遷された主人公(ペ・ドゥナ)が、買い込んだ大量の酒をペットボトルに詰め替えるところ。そこで詰め替える?そもそも詰め替える必要がある?そんなに呑んで、それだけの酔い?などとツッコミを入れたりもしたけれど、ペ・ドゥナと少女ドヒ役のキム・セロンが可愛い~と思いながら見ている分にはリアリティに問題があってもそれほど気にならなかった。では私のもやもやは何だったのかというと、倫理的によろしくないことが行われている、それが原因だと思っている。ドヒは祖母と父に虐待されている。父はあこぎな雇用主でもある様子だが、警察は見て見ぬ振り。外からやってきた主人公はそのことに気づかぬまま。主人公の左遷された理由というのは秘密にはされているが(部下にはバレている)、それが左遷の理由となることの理不尽さ。秘密を抱えた主人公の閉塞感は、見ているこちらも息苦しい。そして、極めつけは少女ドヒの狂言レイプ。更に狂言と気づきながら主人公がドヒを見捨てて去って行くに及んでは、もやもやムカムカの頂点であった。しかし、奇跡の大逆転、ハッピーエンディングとなって、ホッとしたのと同時に思ったのは、子どもが生きのびるのはもの凄く大変なことなのだ、ということだった。昨今、いじめられ自死にまで追い詰められる子どもに、この映画のように頼れる大人(それは歩み寄ってくれた人)がいたならと思った。見てからしばらく経った今、もう一つ思い浮かんだのは、『ひとりで生きる』だ。ロシア版『大人はわかってくれない』とも言える作品で、こちらは大人から自由になりたい子どもだったが、やっぱり子どもが生きのびるのは大変なのだ。
(シネマ・スクウェア10月号 2015/09/11 シネマ・サンライズ 高知県立美術館ホール)
お茶屋さん、こんにちは。
一昨日付けの拙サイトの更新で、こちらの頁をいつもの直リンクに拝借したので、報告とお礼に参上しました。
僕も、たいへんモヤモヤしたくちなんですが、お茶屋さんが映友ともどもモヤモヤされたと読み、思わず頷きました。倫理的観点から、というところが僕とは違って実にお茶屋さんらしいと思いました。
僕には『ひとりで生きる』への想起はありませんでしたが、成程なという感じです。どうもありがとうございました。
もやもや仲間のヤマちゃん、リンクとコメントありがとうございます。
ガビーさんも倫理的な観点からもやもやしたそうですよ。ハッピーエンドとは思えなかったとのことで、もやもやが続いたみたい。
私は子どもについては楽観的なので、ラストで晴れ晴れ~でした。
現実の世の中もそうであればよいのですがねぇ。