ふがいない僕は空を見た

生まれて生きるということの大変さを、序章のセックスから描いた作品のようだ。生まれる前から大変なんだから、生まれた以上どんなに大変でも生きてよねと、けっこう理屈っぽく(セリフで)訴えかけてこられたように感じた。

姑から早く孫をとせっつかれるあんず(田畑智子)を見ていると、生まれる前段からえらいこっちゃと思う以上に、経済的に自立できてないと離婚もままならない哀しさを感じた。でも、結局は離婚したみたいで、あんずのその後の人生が好転することを期待したい。
産院を営んでいる母(原田美枝子)を手伝うこともある卓巳(永山絢斗)は、イイ子だ~。関係ないけど、自然分娩の産院に妊婦さんが引きも切らずで驚いた。自然分娩って、そんなに人気があるの?
良太(窪田正孝)とあくつ(小篠恵奈)もイイ子だ~。コンビニの先輩(三浦貴大)に勉強を教えてもらえることになって喜んでいる良太なんかめっちゃ可愛い。あくつも水浸しになった良太の住み家を、いっしょに掃除してくれたりするのだ。この二人が悪意をむき出しにしてビラをまくシーン、弱い者イジメの原理を見た気がした。良太とあくつは、理不尽に貧しく差別されている。誰に怒りをぶつけたらいいのかわかってないし、怒りをぶつけたい相手(例:コンビニの店長)には怒れないし、そういう鬱積した気持ちのはけ口として自分よりイイ思いをしていそうな者をねたんで、その者の弱みにつけ込んでいじめるのだ。自分より強い立場の者に立ち向かっては行かない。

監督:タナダユキ
(シネマ・サンライズ 2013/04/25 高知県立美術館ホール)

「ふがいない僕は空を見た」への2件のフィードバック

  1. 確かに、福田とあくつの行動は、いじめの構造を具体的に見せてくれるものかもしれませんね。二人がなぜ卓巳の写真を学校や町内でばら撒いて、卓巳の立場を一層悪くするような行動に出るのか、その心理が僕には今いちよく判りませんでした。あの映画で一番釈然としないのは、その部分ではないでしょうか。ただ、お茶屋さんも言われているように、家庭環境や貧困の中で、ふたりとも胸に抱えきれないほどの鬱屈をかかえていて、それがどういう形であれ、はけ口を求めていたと言うのはわかります。日頃から、自分たちの置かれている状況と卓巳のそれとを比べて、表に出せないままに、妬みやら卑屈感をつのらせていた、ということはあるかもしれません。

    だから、彼らのやっていることは、結果を考えればとてもひどいことなのですが、その表情から読み取れるのは卓巳を“いじめている”という意識ではなく、二人が共犯の立場に立つ愉楽感 = カタルシスといったものです。(もっとも、自分一人だといじめることはできないのに、共犯者がいるといくらでもいじめられる、というのもまたいじめの基本構造ではありますが。)

    映画のアンケートでも、福田君はあんなことをした自分をその後どうクレアしていくのだろう、と心配する声がありました。映画では、その後何かふっきれたように、自分を励まして登校する卓巳をサポートするかのように、付き添っている福田の姿がありました。ちょっと頼もしいくらいでしたね。

  2. 福田とあくつの二人を見ていて、在特会の人たちのことが少し理解できたような気がしたんですよね。それがこの映画を観た収穫です。ガビーさん、ありがとう。

    >二人が共犯の立場に立つ愉楽感 = カタルシスといったものです。

    どうやらそのようですね。もっと平たく言うと「うさばらし」。
    だれでも「うさばらし」は必要だと思いますが、他人を犠牲にするような憂さの晴らし方はいけませんよねぇ。
    アンケート氏が、その後の福田くんを心配したのもわかります。
    福田くんはよい子だからなぁ。若いし。若者が間違ったことをしても、大人よりは長い目で見てあげたいですよね。

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