いろいろ触発される豊かな作品だと思う。
齋藤陽道の撮った写真に彼自身の感じたことを書いた作品(「それでもそれでもそれでも」という作品集になっている)をいくつか観たことがあって、いいなぁと思っていた。宮沢賢治の「春と修羅」の詩を写真で表現した写真集を出したと聞いて、観てみたいと思っていた時期もあった。それから幾年ゾ、予告編を見て、こんな美しい人だったのかと思い本編を観る気になった。
若いときは誰でも夾雑物がないゆえの美しさがあると思う。年を取っても美しい人は、澄んでいてまろやかで水底に沈殿物があるせいか奥行きのある美しさだ。齋藤陽道は、もちろん前者で人を惹きつけるとてもよい被写体だ。(50歳を超えた齋藤さんを是非、観てみたいと思った。)
その(ろう者で音楽も歌もわからないと言っていた)被写体を追っていると、子どもが生まれ、やがて子どものために自然と子守歌が生まれた。それを見ていた客人(友人の七尾旅人)が、原始の時代から「本当の」歌とはこういうもの(感じたことが歌になり周囲の人と共有するもの)だったのではないかと感動する。
「ろう者と音楽」という構想はあったかもしれないが、撮り始めたときは、齋藤陽道が歌うことも七尾旅人がまとめになるような素晴らしい発言をすることもわからなかったわけだから奇跡のような作品に思える。(即興の歌が韻を踏んで詩になっているのは、斉藤陽道が詩人だから。マンガを描くことには驚かなかったが、プロレスラーだったことには驚いた。)
歌うと気持ちがいいと言っていた。また、絵や写真は生存本能の発露であるとも。そのとおり!言葉にしてくれてありがとう。絵や写真に限らずアート全般(歌も、ついでに感想を書いたりおしゃべりも)、表現、出力、アウトプット、排泄、どう言ってもいいが、それは芸術家でなくても必要なことだ。まさに生存本能の発露だ。同時に入力だって必要なことだ。出したら入れる。入れたら出す。どちらが先かはわからないが、どちらも必要。
新型コロナウイルスで芸術・文化も保護施策の対象としたのはドイツ政府だったか、どこだったか。わかってるね!『うたのはじまり』を観て思ったことの一つだ。
ろう者も楽しめるように音楽が、五線上の絵になってスクリーンの下を流れる。生き物みたいで面白かった。
(2020/10/07 ゴトゴトシネマ メフィストフェレス2階シアター)