1980年代に日本で公開されたので制作年も同じ頃かと思ったら1975年とのこと。ピーター・ウィアー監督の初期の作品だ。フィルモグラフィを見たら大好きな『マスター・アンド・コマンダー』も監督していて驚いた。なぜかリドリー・スコット作品と思い込んでいたので。本作はフィルムをデジタル化してのリバイバル。すごく綺麗。空はちゃんと空色だから、オリジナルのフィルムは退色してなかったのだろう。赤茶けた建物や風景はオーストラリアの独自色なのだろうと思った。西部劇なみに乾燥した空気感の中で少女たちの瑞々しさが際立つ。1900年の聖バレンタインデーに、コルセットを締め上げミディドレスに麦わら帽子、手袋、編み上げ靴と真夏に淑女の出で立ちでピクニックに出かける。全寮制の私立学校で教育を受けるお金持ちのお嬢様が、束の間解放されるのが岩山ゆきなのだ。この岩山がいろんな顔に見えて可笑しい(不気味にも見える)。演出(音、間、蛇や蟻など登場)はホラー風味だと思う。原因不明とか行方不明とか、謎というのは人を不安にさせる。私も子どもの頃、友だちに刃物で怪我をさせたことがあった。確かに刃物は持っていたがお互い離れていて私には怪我をさせた記憶が全くなかった。子どもの話を聞いて大人たちはカマイタチではないかとか話していたが、結局子どもに刃物を持たせた親が悪いということで終わった。子どもの私はしばらく(何年も)怖かったが、今は私が怪我をさせたのだろうと思う。怖くて無意識に記憶の差し替えをしていたのだろう。そんなわけで神隠しの類いも(宇宙人の連れ去りとか想像しないではないが)滑落、転落でけりがつくと思っている。海でも山でも亡骸を見つけられないことはあり得る。だから、学校の生徒、職員が行方不明だと親は退学させたくなるだろうし、経営が立ちゆかなくなりそうだと校長もノイローゼになるだろう。と考えていくと本作には謎がなくなる。いくらでも想像で謎解きはできるのだ。そうして、ふと気づく。謎を謎のまま受け入れるのは難しいことなのかもしれない。
(2024/08/04 メフィストフェレス)
投稿者: お茶屋
暑中お見舞い
窓を開ければ朝から温風、夜は寝汗でパジャマがぼたぼた。遂に仏間にボンボンベッドを持ち込んでなんとか眠っています。あと十日もすれば朝夕は涼しくなって虫の声が聞こえ出すはずと自らを励ましておりますが、皆さまはいかがですか?甘酒を飲んで乗り切りましょうね(^_^)。
庭は草ぼうぼう。思ったとおり屁糞葛がはびこっております。やはり、戦いは冬からなのです。12月か1月に十文字になった数多の拠点をやっつけておかないと太刀打ちできないなぁ。夏は気力が沸かないし、朝から暑いし。草は置いといて、もう涼やかなイケメンで保養するしかにゃい!というわけで(?)、7月は岡田祭りをやっておりました。
しかし、岡田(将生)くんは、仕事選べよってくらい出まくりですなぁ。映画、ドラマ、CM、雑誌に舞台も。祭りの成果を書いておきたいけれど、なかなか終わらない感じです。
あと、ドラマも見まくっていました。
「大豆田とわ子と三人の元夫」:岡田君も出てたけど、松たか子がよかった!感動したので同じ脚本家(坂元裕二)の「カルテット」(これも松たか子主演)も見ました。面白かった!
評判の「エルピス」も「MIU404」もよかったです。いずれのドラマも声を出して笑えました。(^Q^)ナイス!
重力ピエロ
感動した(ToT)。
弟、春(岡田将生)が二階から落ちてくるのを、兄の泉水(加瀬亮)がひょうひょうと受け止める。ユーモアもあるし(^Q^)、素晴らしい兄弟愛、家族愛ものだ。
この家族には、けっこうな重力が掛かっている。ときおり外圧も掛かって凹むが、結束力は強くなる。それでも春には特別に重力が掛かっていた。兄曰く「生まれたくなかったほどの恨みだよ」。
そして、家族には重力を解き放つ秘策があった。父曰く「楽しそうにしていればいいんだよ」。母曰く「そのうち私たち宙に浮くかもね」。
いやなことが頭に浮かぶのはしかたがない。考えないようにしようと思ってもできない。だから、ところてん方式だ。こだわりを捨て、脳のキャパ以上に次から次へと楽しいことをインプットするのだ。母が笑顔で水をまいている姿、父が養蜂している姿、二人が仲睦まじく向かい合っている姿。兄ちゃんが棒のように突っ立っている姿(笑)。
●遺伝<環境。本当の親は育ての親。血縁の父(渡部篤郎)と息子は、ジンジャーエルがお好き。私は、お酒が飲めないのは遺伝だろうけど、ジンジャーエルは偶然と思う派。息子が嘘をつくとき、自分と同様に唇をさわってしまう癖があることを発見した本当の父(小日向文世)が嬉しそうだった(他人が見れば「血は争えないなぁ」と言うところ(^_^))。
●創作の世界は殺人もオッケー。現実では裁判所は勝敗をつける場所になっていて真実どころか事実さえわからないこともある。連続強姦魔は絶対悪として描かれており同情の余地なし。ジョーダンバット、上等!めちゃめちゃカッコいい父ちゃん(小日向文世)とサイコーの母ちゃん(鈴木京香)が、強姦魔に負けてないところを見せてもらって涙ぐましく嬉しい。創作万歳!
●春の言動や部屋に張り巡らされた偉人の肖像を見るにつけ、どれだけ救命ロープが必要だったことかと感じる。たかが遺伝子、されど遺伝子。本当のことを教えるのは幼い頃の方がよいかも。知らない方が幸せだと思うけれど、口さがない世間の声が耳に入るより早く、年齢に応じた知らせ方をしていった方がいいような気がする。養子縁組とは違うから難しいとは思うし、春の苦しみように変わりはないかもしれないけれど、ある程度は考える手間が省けると思う。
●吉高由里子(夏子役)を初めてよいと思った。
●海の近くの家がナイス。美術さん、いい仕事。スクリーンで見たかった。
(2024/07/11 動画配信)
俳句の読み
今月から俳句を始めた。これまで4、5年に一句くらい作っていたのを、ほぼ毎日。俳句のいいところは、映画や書道と異なりスキマ時間に頭の中だけでできることと、季語を覚えると今まで見えてなかったものが見えるようになることだ。(20年くらい前、俳句をやっている上司が「竹の秋」「竹の春」という季語を教えてくれて、春に竹の葉の吹きだまりを見つけたり秋に若い竹林を目にするようになった。)
俳句のできにこだわらなければ月並み句や、それ以下のものができる。ちょっとマシと思うものができても、「ああ、自分でそう思っているものが『プレバト』で夏井先生に赤ペンだらけにされるのだな」と出演者の気持ちがわかるようになった。
書道は鑑賞ができなければ書けないし、書けなければ鑑賞も難しい。俳句も多分、同じだろうと思う。だから、読みができない今、詠みもできなくて当然なのだ。なんとか読みの方ができるようになりたいものだ。
夏井いつき先生のyoutubeチャンネルで紹介されていた藤田湘子著「20週俳句入門」(角川ソフィア文庫)を買って読んでいるところで、課題の名句四句を暗誦できなければ翌週にすすんではならないというルールがある。その名句のひとつ、水原秋桜子の「ふるさとの沼のにほひや蛇苺」を読めたつもりでいたのだが、後に載っていた解釈とは全然違っていた。私はてっきり、ふるさととは違う場所に住んでおり、そこで蛇苺を見つけてふるさとの沼の匂いを思い出したのだと思っていた。蛇苺ってどんな匂いなんだろうとも思っていた。ところが、ふるさとの沼に来ており「ああ、以前と変わらぬ匂いだなあ!」と思って、ふと足下を見ると蛇苺があったということらしい。この場合、切れ字の「や」が「にほひ」を強調しているので、実際沼に来ていることになるようだ。作品の解釈は十人十色でよいけれど、法則を知ったうえでの解釈でないととんちんかんなことになるのだと思った。
今、第7週目の名句を暗記しているところで、ここに来てやっと私も名句と思える好きな句が出てきた。渡辺水巴という明治、大正、昭和を生きた俳人の句だ。
庭すこし踏みて元日暮れにけり
珠数屋から母に別れて春日かな
ぬかるみに夜風ひろごる朧かな
月見草離ればなれに夜明けたり
月見草の句は「ばなれ」の表記がひらがなの「く」のような字に濁点。
元日の句(朝寝して迎え酒、お昼にお雑煮を食べて、うとうとして目覚めて、お節をつまみに又御神酒。明日、投函する賀状をしたためようかと思いつつ、あれ、もうこんな時間、少しは外の空気でもと思い庭にすこし出ただけで終わってしまった元日よ。)
春日の句(数珠がなかったのかそれとも新しくしたのか、作者は数珠を買いに行った。葬儀、告別式を無事終えて見上げる空に母はいるのか、春の日の光が柔らかい。)
朧の句(春とはいえ夜はまだひんやり。道なりに続くぬかるみに湿り気を帯びた風がゆるゆると吹いている「もあもあ」であるよ。)
月見草の句(夜が明けてみると月見草は終わっているのね。あなたと私の仲のよう。)
俳句の勉強をした何年か後、この解釈がどのように変わるのか、書いたことを覚えておきたい。