芸者小万、実はお六を演じた菊之助が素晴らしい!夫の三五郎、実は千太郎(中村勘太郎)と組んで、源五兵衛、実は数右衛門(中村橋之助)から百両をだまし取る。源五兵衛が惚れるのも無理はない美しさ色っぽさ。あでやかにその場を仕切って、すりゃ、皆小万の思いどおりになるわいな。「小万は俺に惚れている」と思わせられては、男としてはのぼせるしかないだろう。悪女と言えば悪女だが、それは故あってのこと。欺されたと知った源五兵衛の復讐を恐れたり、三五郎の女房としてのしっかり者風情などは芸者のときとはガラリと違うが、同一人物の異なる面を観せてもらったという感じでキャラクターに一貫性があった。
残念なのは、勘太郎と橋之助。この二人も欺す・欺されるとき、復讐する・それを逃れるときではガラリと違うのだが、キャラが立つまでには至ってなかったと思う。特に主人公とも言える源五兵衛を演じた橋之助は、仏作って魂入れずみたいな感じだった。初日だったので、今頃はもっとよくなっているかもしれない。(橋之助の子どもが源五兵衛の従者を演じていて、滑舌がよろしくないうえ棒読みっぽかったんだけど、ほんわかとした雰囲気に加え、主人には芸者にうつつを抜かさず義士に加わってほしいという一所懸命さが伝わってきて意外によかった。未完成の仏に魂入れた感じ。)
勘太郎をずっと前に観て、若いのにこなれているなぁと思ったことがあった。今回はお父さんに似てきたなぁと。注文としては、もっと助平になってほしい(笑)。だって、小万の胸をもむ場面、もまれる方はエロティックだったよぉぉぉぉ。そこで鶴屋南北はエロだと聞いていたのを思い出し、三五郎の方に不足を感じたわけだ。
演出は串田和美。
5人切りの場の緊張感には場内水を打ったよう。ギシギシと回り舞台の音だけ。斬るたびにツケの音。あまりの凄惨さに本当に胸が悪くなった。聞きしに勝る南北だ。
下座音楽はよいとして、西洋楽器(チェロかなんか?)が奏でる旋律に気が滅入り、歌舞伎の世界に合ってないと思って観ていたが、小万とその幼子をなぶり殺した後、雨の中を庵まで帰る源五兵衛の場面にこの音楽が重なると、陰々滅々が更に陰々滅々でイイ!ここは客席まで降ってくる雨といい、ある種の美しさがあり、演出のハイライトだ。(しかし、源五兵衛はどういう気持ちで殺したのか、橋之助の演技では私はハッキリとはわからなかった。義士に加わるための百両を騙し取られた恨みか、小万に心底惚れていたためか。ひと思いに殺さないこと、小万が「三五さんの顔が見たい」と言ったあと、夫にそっくりな幼子をかばいに行くのを見て子どもまで殺したことからすると、台本上は恋の恨みが勝るような気がする。この場面で、仁左衛門で観たかったと思ってしまった。)
笑えるところもたくさんあって、笹野高史も可笑しくてよかったんだけど、初めての南北は・・・・・、南北だねぇ;;;;。本当に胸が悪いわ~。しかし、おしまいは5人切りの場を再び使い、死んでいった人も生き残った人も走馬燈の中で楽しげに回っている。なにやら人生やなぁと思ったし、なにより胸のむかつきが取れて行ったのがありがたかった。
(2011/06/06 コクーン歌舞伎)
コクーン歌舞伎「盟三五大切」@シアターコクーン
ガムザッティさんの感想
カテゴリー: ほぼ文化系
誰ガタメノ剣[追記]
終演後、「酔うた」とおんちゃんと兄さんが言い合いながら帰って行ったのが可笑しかった。
あれほど、台詞をがなりとおされたら、悪酔いするよなぁ。
声が割れて聞き取りにくいし。親泰を演じた人は、落ち着いて話していたので聞き取れたけど。そのせいか、親泰だけが演技ができていたような印象だ(^_^;。
信長と秀吉の場は、可笑しかった~(^Q^)。声に出して笑っちゃたよ。信長はヘビメタで秀吉はサンバ(笑)。もちろん、信長が生きている間はサンバはない。
その他の場も、うまくいけば笑えて楽しいお芝居になるんだろうな。場内、結構笑いが取れていたので、好き嫌いが分かれるのかもしれない。私は嫌いじゃなかったけど、台詞が満足に聴き取れないのじゃいかんせんであった。
驚いたのは満席だったこと。帰り美術館から公道に出るのに渋滞で、車のナンバーとか見ていたら、愛媛とか北九州とか(更驚)。人気の劇団なのね。
[追記]
職場で「どうだった?」と尋ねられて答えるうちに、いいところもあったじゃーんと思えてきて、追記しておこうという気になった。
登場人物の皆が皆、「戦わなければ」と思っているのは、いくら戦国時代といえどもイヤな感じがしたけれど、主人公のはずの元親が主人公らしく描かれておらず、むしろ家臣や領民(それも女たち)が主役のようだったのが新鮮だった。元親は、戦で犠牲になった者を思って悔やんだり、なんやかやと悩んだりの意外なキャラだったのがよかった。このように家臣・領民が元親を盛り立てるような構図だから、秀吉から土佐一国のみ与えられ、領民に合わせる顔がないと思いながら帰高した元親を、領民が喜んで迎えるラストは、うまくいけば感動できたように思う。
シアターキューブリック
(高知県立美術館ホール 2011/05/21 夜公演)
風間杜夫の落語とトークショー
出囃子は「蒲田行進曲」(笑)。落語は若かりし頃のバイトの話をしたマクラが面白かった。本題の「火焔太鼓」も、とてもうまくて笑った。玄人はだしというのは本当。マクラの面白さと比べると、「火焔太鼓」はもっとうまくなれる余地ありと思う。古典落語の「芸」というのは、単なる話芸とは違う奥が深いものだとわかった。(落語ほど話し手の人間性の出る芸はないかも。おそろしい。)
トークショーは、子役時代から始まって、『蒲田行進曲』出演のいきさつ、苦手な女優の話などなど、これもまた面白かった。『蒲田行進曲』って東映太秦村で撮影した松竹配給映画で制作は角川なんだと。角川が東映と松竹を取り持って作った作品と言われていた(へぇ~)。
会場には熱心な風間ファンあり。ファンてありがたいな~。多分、うん十年でしょう。
風間さんは昭和24年生まれとは思えない若々しさ。本人曰く、髪の毛がフサフサだからとのこと。私は童顔だからと思う。
東日本大震災のチャリティーで落語の公演(巡業)は続けるとのことだった。
(2011/05/17 かるぽーと)
人形の家[Noism01]
イプセンの劇とはあまり関係がなかった。歌舞伎、文楽、カルメン、中島みゆき、モーリス・ベジャール。私がわかったのはそれくらいだが、既存の表現を活用して、更に身体表現を広げていこうとする試みのようだった。とても面白いダンス公演だった。
歌舞伎の人形振りは大好きだ。この「人形の家」では、一人から数人の黒衣がついて人形(人間)を動かすので、黒衣のリフトによって文楽の人形のような宙に浮く動きもできる。その点、歌舞伎を超えている。
人形の動き自体も面白いが、物語らしきものが想像できるので、前に観たNoism04(2004)の観念的なダンスよりエンターテイメント化されて観やすいし、楽しい。
例えば・・・・・
セーラー服人形に赤ワンピース人間が片思い。でも、セーラー服人形は、ヒゲ男をカルメンのごとく誘惑する。これを見た赤ワンピースは、「今はこーんなに悲しくて、涙も涸れー果てて」と歌い始める。受けた(^Q^)。
カルメンでも扇の使い方とか可笑しかったし、声をあげて笑いそうになったけれど、会場があまりに静かなので抑えた(苦)。
第二幕では、黒衣がなにやら恐ろしいものになっている。人形は人間になったのか、動きが人形らしくなくなっている。そうこうしているうちに、もしかして、「春の祭典」!?。もしかしなくても春祭!。録音テープでもすごい音楽だ。しかも踊りはベジャールだ!裸でおどるのもいっしょ。黒衣改め覆面の恐ろしいものに囲まれて、人間になった人形が踊っている。ぴょんぴょん跳ねているのはニジンスキーの春祭っぽいような(?)。人間になった人形が血を流しているのに気づいてビックリ仰天。激しい踊りなので怪我でもしたのかと思った(^_^;。
血が出たので、ああ、やっぱり人間になったのねーと思い、ベジャール春祭の真ん中で踊るのは生け贄だったことは、アフタートークで言われるまで忘れきっていた。
ダンサーのおしまいの挨拶は、中島みゆきの「夜明け間際の吉野家では、化粧のはげかけたシティーガールと、ベイビーフェイスの狼たち~」のBGMでしめやかに(笑)。もう、可笑しくてたまらなかったが、誰も笑わないのでこらえた(苦)。
人形振りは誰でも踊れてダンサーの個性が出しにくいのではないかと思いながら見始めたが、見ているとセーラー服人形が最も人形らしい動きで目を惹かれた。だけど、人形を踊るダンサー全員が人形の動きを極めたらどうだろう?そんなことも思った。
金森譲はNoismでは踊らないそうだが、「シアン」という井関佐和子とのユニットで9月に高松で踊るそうだ。