英国王のスピーチ

『ラストエンペラー』で溥儀(ジョン・ローン)を可哀想に思った私は、これほど庶民を不幸にしていいなら私にも総理大臣ができると自信を持たせてくれた元首相小泉何某や現首相にも、同情できる不幸があれば涙するのではないかと危惧していたところ、英国王の言語障害とその原因には一滴の涙も出なかったので、小泉何某に同情することはないかもしれないと若干気が楽になった。
ジョージ6世(コリン・ファース)のユーモアのあるセリフには笑わせてもらった。また、言語障害克服訓練が面白かった。それにくらべて、公式のスピーチの内容はつまらない(としたものだ)。特に映画の最後のスピーチは内容が内容だけに、いかに上手く話せても「よかったね」と感じなかった。ジョージ6世にとってよかったのであって、国民のためにはよいことでもなんでもないと思ってしまった。最初のスピーチが最もスリリングで痛ましくて、ヨーク公には気の毒だけれど映画としてはよかったと思う。
俳優を目指していたライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)が、戦争神経症で言語障害になった人たちをサポートするうち専門家になっていったというのが、非常に印象に残った。
『ヒアアフター』で見かけたデレク・ジャコビが大司教役で出ていて、「また、出たー!」と(^_^;。実はこの人の顔がちょっと怖くて苦手。
灰緑色がきれいだった。
(TOHOシネマズ高知6 2011/02/27)

瞳の奥の秘密

素晴らしい!
死体を発見したときの反応がラテンだ。昨日、北欧の反応を見たばかりだったので、表情の差異に「ラテンだ、ラテンだ」と(心中)騒いでしまった。・・・・いやいや、それが素晴らしいっていうのじゃなくて(笑)。A(エイ)はI(愛)なのだ。Aがない25年間、それは虚しかったろう。(愛する人を失った虚しさ、思い出さえ色あせてしまう哀しさはリカルド・モレラス(パブロ・ラゴ)で十二分に描かれていた。)だけど、ベンハミン・エスポシト(リカルド・ダリン)には、まだ愛する人がいるのだもの。「簡単じゃないわよ」だったとしても、そりゃ、アタックあるのみだ。
それにしてもイレーネ・ヘイスティングス(ソレダ・ビジャミル)の瞳だってベンハミンと同じくらい語っていたので、ベンハミンもわかっていたはずなのに、なぜ、25年前にアタックしなかったのか。映画の中では、その答えをベンハミンの友人パブロ・サンドバル(ギレルモ・フランセーヤ)が語っていた「恋をしていないから、浮いた言葉を掛けられる」。
一目惚れした女性が上司で、本気になればなるほど気後れして気軽な言葉さえかけられないという感じだろうか。奥ゆかしい(自称堅物)イレーネが勇を鼓して誘った日にパブロが殺されるというタイミングの悪さもあった。(そういうことで、この「なぜ」を片付けていいのかという気もするけど。)
瞳に語らせる作品だけあって役者もいいし、アップも多い。モレラスとの25年ぶりの再会後、帰途の車中でベンハミンの思考をフラッシュバックで見せたり、モレラスの家へ徒歩で引き返すベンハミンを逆光でとらえたショットも印象深い。列車の音に重ねて銃を撃ち、銃口からは火花がというシーン、渋い。音楽がなかなかメロドラマ。どこまでが小説かと想像をふくらませることができる。長年の幽閉にもかかわらず、イシドロ・ゴメス(ハビエル・ゴディーノ)の目に力があったことが気にかかった。
(こうちコミュニティシネマ 高知県立美術館ホール 2011/02/24)
[追記]
モレラスがイシドロ・ゴメスを20年以上幽閉していた(懲役刑に処していた)という部分は小説ではないかと思う。そのヒントが、ベンハミンとイレーネの会話にあった。小説の中のイレーネとベンハミンのその後をどうするかという話になって、イレーネは二児の母となり、ベンハミンはどこか山の方で家畜を飼って独り暮らしというようなことだったと思う(早、わすれかけている;;;)。
モレラスは国境に近い山の方で独り暮らしだし(家畜の話も出たような?;;;)、構想していた小説中のベンハミンのその後と符合する。だから、最後に登場したモレラスは、ベンハミンを投影した小説中の人物ではないかと思ったわけだ。何よりイシドロ・ゴメスのために三食作って洗濯して汲み取りもなんて、そんな面倒な(!)と思う。そりゃ、小説でなければ出来ませんよと。
妻のことを忘れられないゴメスに「忘れなさい」と何度も言わせる。それは書き手のベンハミンが、忘れたくても忘れられないことを、忘れた方がよいと思っているからだろう。イシドロ・ゴメスを幽閉していたと書くことによって、友人パブロを殺した犯人も捕らえられ懲役に処せられたと思った方がよいと自分に言い聞かせたのではないだろうか。そうすることによって事件にけりをつけ、パブロの墓参りにも行けたのではないだろうか。

ミレニアム2 火と戯れる女

むむむ、つづきを早く観たい。
リスベットの過去は、だいたい想像していたとおりだった。
途中、話について行けないと思ったけれど、終わってみたら何となくわかったような気がする。やはり私はミステリーは苦手だ。だけど、リスベット(ノオミ・ラパス)とミカエル(ミカエル・ニクヴィスト)を見ているだけで面白い。特にミカエルは、あんなゴッツイおじさんなのに可愛いとこがお気に入り~。死体の第一発見者になったり、瀕死のリスベットを見つけたりして、言葉を失う表情が(^_^)。判断力も行動力もあるし。そりゃ、モテモテですわ。
(あたご劇場 2011/02/23)

ヒアアフター

面白かった。こういう、ゆるゆるな感じは好きだ。
サンフランシスコ、パリ、ロンドンと楽しませてもらった。
霊能者ジョージ(マット・デイモン)、臨死体験者マリー(セシル・ドゥ・フランス)、双子の兄を亡くした少年マーカス(ジョージ・マクラレン/フランキー・マクラレン)の三人が、どこでつながるのか最後までわからなかった。
マリーのパートがちょっと弱かったかな。ちょっとしか可哀想じゃなかったもの。(もちろん、マーカスとジェイソンの兄弟には泣かされた。お茶屋のお約束(笑)。)
ジョージの兄(ジェイ・モーア)がなかなかいいキャラ。霊能力を活かして金儲けしようという実利主義。弟の苦しみは想像の外。だけど、自分はフリークだという弟に「お前はお前じゃないか」と言える、本当に普通の人。普通の人の強さって(敏感じゃないところ)いいと思う。
[追記]
hereafterは、字幕で来世と訳されていたけれど、今後という意味もあるらしい。主要登場人物三人(つまり生きている人間にとって)の今後が大切で、その今後になくてはならないものが、「霊界」という概念なのだと思う。
映画の中で最も切実に霊界を必要としていたのは、もちろんマーカスだ。その切実さに泣かされる。(ジェイソンと共に母を庇う姿にも泣けた。)ジョージは霊界を必要とする人々、関心のある人々に苦しめられ、これもまた切実な問題だった。
マリーの役回りは、霊界が存在すると科学的に人々に知らしめることだ。(日本で言うと丹波哲郎・・・・(?)。)だけど、イーストウッド監督は「霊界が存在する」ということよりも、「生きている人間の今後」と「来世という概念」の方に重きを置いているのではないだろうか。脚本では「霊界が存在する」というマリーのパートの比重もマーカスやジョージと同じくらいだったのかもしれない。「死後のことはわからない。だけど、生きている人間に何が必要かはわかる。」そんなイーストウッド体質が、マリーのパートを弱くしたのではと思った。