芸術イコール自由。その対極にあるのがナチスやかつての東ドイツのような全体主義の体制(であり出る杭を打つ世間)だ。
絵さえ描けない不自由な時代から、絵は描いてもよいが画題は選べない不自由な時代へとつづき、西ドイツに脱出して商業主義の誘惑はあるものの、アトリエまで与えられて何をどうしても自由、さあ、制作にかかれるというときに、主人公クルト(トム・シリング)は空っぽ。ぽか~ん。そりゃ、あんた才能がないんじゃないの?芸術家って描きたいものが次々と(引退宣言した後も)押さえてもフタをしても湧きあがってくるものじゃないの?というツッコミは気の毒だった。申し訳ない。いかに才能があろうとも、長い間ナチスなどの元で発揮しようがなくては錆びてくるというものだ。
その錆を落としてくれたのが、デュッセルドルフ芸術大学の教授(オリヴァー・マスッチ)だった。教授は自らを語り(というかさらけ出して)、「君は何ものなのだ」と暗に問う。そして、結局、芸術作品とは作家の現し身なのだ。クルトは自分を掘り起こす作業を始める。
というわけで、1930年代から1960年代までの東西ドイツを舞台に、芸術(作品)とは何かを描いた作品と受けとめた。そして、一番感動したのがこの教授の語りの場面だ。若い人のために身を削って教えてくれる。なかなか出来ることではない、ありがたいことだ。
帰りにもらったチラシを見ると、クルトのモデルはゲルハルト・リヒターだという。えー!?聞いたことがある名前~、我らが棚ぼた美術館に作品があったかも!と思って検索したら、「ステイション」という「あー、あれか」な作品だった。それとは別に来年、大規模なリヒター展が東京と愛知で開催されることもわかった。東京、愛知はすっかり遠くなったけど、豊島のガラスの作品は見てみたいな~。
(2021/10/27 高知県立美術館ホール)