最高の人生をあなたと

中高年向け喜劇。お客さんが少なくて笑い声は一つもなかったけれど、私は心の中で(あるいは口は開けても声を出さずに)何回も笑った。
はて、何が可笑しかったのか。う~ん、忘れた(^_^;。←年

そうそう、メアリー(イザベラ・ロッセリーニ)がえらく年齢を気にして、寄る年波に備え電話機なんか文字が大きく見やすいものを買ってきたり、浴室に手すりなんかを付けたり。夫のアダム(ウィリアム・ハート)はえらく反発して、まだそれほどの年ではないわいと電話機を返品しろといいつつ、浴槽に入るとき、つい、手すりを握ったり(^m^)。そんな些細な年齢に関する意識の相違から別居生活に入ったのだった。アダムなんか早々に若い女性から予期せぬお誘いがかかり、(興奮よりまずは戸惑い)それで返って自分も年を取ったなぁと自覚したり(笑)。
二人の子どもたちが、両親の離婚の危機を回避させるため密かに奮闘(?)するのが微笑ましかった(ツボ)。
メアリーの老いた母ノラもいいキャラクター。めちゃカッコイイばあさん。孫に対するその態度(^o^)。死に際(拍手)。
メアリーの独り者の友だちで、孤独をまぎらわすためボランティア活動にいそしんでいる女性は、将来の私なのか(?)。
一組の夫婦を中心に老後の楽しみ方(「こういう心持ちで行けばいいんじゃないかな」という提案)を描いた作品で、遅咲きというより、もう一つ花を咲かせましょうという感じだった。

LATE BLOOMERS
TROIS FOIS 20 ANS
監督:ジュリー・ガヴラス
(市民映画会 2012/09/20 かるぽーと)

夢売るふたり

映像がとても美しい。東京の風景をとても美しく切り取っていること、朝も夕も夜もやわらかな色合いに仕上げていること、カメラワークも凝っていること、スローモーションや音の付けたかなど、西川作品で初めて監督の存在を感じ、うまいなぁと唸った。
里子(松たか子)も貫也(阿部サダヲ)も瞳が黒々と静かに輝いていて、二人の姿形、動きを追っているだけで面白い映画だった。観て楽しむ分には西川監督の最高傑作だと思う。ただし、物語としては、あまり後に残らない感じがした。

里子としては、「自分以外の女性と寝れるのね、ああ、それなら、好きなだけ寝ればいいじゃないの」という怒りと、「何をぐだぐだやってんだか、あなたは魅力があるんだから、前を向いてたぶらかしてきなさい」と後ろ向きの夫に自信を取り戻してほしい思いと、「また店を持ちたい」と夫の夢を自分の夢として叶えたい気持ちがあったのではないかと思う。それで詐欺の提案をしたわけだが、「夢を売るのよ(相手のためにもなるのよ)」と罪悪感をごまかすのがうまい。
貫也が自分の掌で詐欺っているうちはよかったが、ひとみちゃん(江原由夏)あたりから、貫也自身が考えて行動するようになると、もう、貫也にとって自分はいらない存在ではないかと心配になって、ついにハローワークの職員(木村多江)のところへ乗り込んでしまったのだろう。

貫也の方は、咲月(田中麗奈)など始めの方はよかったが、詐欺という心身ともに疲弊するハードワークに、これは浮気の罰だと感じ始め爆発する。このとき里子は、夫と自分の夢を叶えるためにやってきたことが、夫に対する「復讐」だったと初めて自覚したのかもしれない。貫也に爆発されて、「あなたのためにやっているのに」と里子も言い返しかけたが、そういやそうかもと気がつくと、もう、そう思うなら思われてもいいわと口をつぐんだのではないだろうか。
この場面あたりから二人の心のすれ違いが顕著になって、これだけ意思疎通ができないでいると、いずれ別れるぞ、いつ別れるんだと思って観ていた。
詐欺という復讐により自分たちの夢を切り売りしたため、二人の夢はなくなり、一人の夢でもなくなるのではないか。

ところが、別れるどころか、里子は第1番目の浮気の相手(鈴木砂羽)に夫が借りたお金を妻として返済するのだ。(いろいろ解釈はあるだろうけど、私は「いちかわ」と書いた封筒で返済したのは里子だと思っている。)
しかも、ラストシーンでは、里子と貫也は別々のところにいるらしいのに、二人が同時に同じもの(かもめ)を見上げたような演出がほどこされているものだから、「作り手は二人の気持ちが通じているとでも言いたいのか?」という気持ちにさせられた。
そうなると、夫婦というものはわからんなぁという気持ちがのこり、考えてもわからんだろうから考えないことにして、物語としては後に残らない作品とあいなった。

監督:西川美和
(2012/09/19 TOHOシネマズ高知1)

あなたへ

幾重にも面白かった。
まずは、やはり健さんだろう。ひかえめ、誠実という美徳を備え、不器用に理想の日本人を演じてきた(というほどは見てないが)。ファーストショットが富山の刑務所だったので、すわ、健さん、また入っているの???と思った自分が可笑しい(笑)。こんだけキャップが似合う80歳はいないだろう(カッコイイ)。浅野忠信より背が高い(驚き)。俳優のアンサンブルもよかった。綾瀬はるかと三浦貴大がお似合い。

次は、富山から長崎までのロードムービーとして(夕焼けシーンがやたらと赤く回想シーンと見分けがつかなくなりながら)、竹田城址など素晴らしいショットに喝采をおくった。

人物の多面性を描いているところも面白い。イカめし販売の兄ちゃん(草薙剛)とその相棒(佐藤浩市)。もと国語教師(ビートたけし)。

倉島英二(高倉健)と洋子(田中裕子)夫妻のストーリーとしてもよかった。夫婦であっても全てをわかり合えているわけではないというセリフや、妻と死に別れその後の人生を一人で生きるというのは、夫婦に限ったことではなく色んな関係に言えることだ。一人一人が個人として生きていて、様々な関係において時間を共にすることがあり、その関係性を大切にしながら(助け合いながら)、やっぱり個人として生きているのだということが描かれているのが嬉しい。しかも、洋子が夫に依存せず、個としてふんわりと生きているのが、またよかった。夫が自炊できるようにレシピメモを作ったり、あるいは花瓶の置き場所も作ってねとお願いしたり。

そして、山頭火のダメ押しだ。

このみちや いくたりゆきし われはけふゆく

この道は、単なる道でもあるし人生とも考えられる。
目的地があって帰る場所があるのが旅で、目的地もなく帰る場所もないのが放浪ならば、人生は放浪ではないだろうか。そうか、みんな放浪しているんだ。国語教師になりたかったコソ泥に、えらいことを教わった(笑)。
この道を、何人が通ったことか。私は今日行く。
妻を亡くした倉さんは、一歩踏み出すのであった。

監督:降旗康男/脚本:青島武
(2012/09/16 TOHOシネマズ高知3)

ポエトリー アグネスの詩

詩は感じたことを書けばいいと思う。それにリズムがあれば鑑賞に堪えうるし、美しさや普遍性があれば後世にまで残ると思う。
私の考えでは、感じたことを書けば一応は詩になるので皆詩を書けるはずだけれど、この映画を観ていると現代人は「感じる」ことができなくなっているのかもしれない。例えば、ミジャ(ユン・ジョンヒ)の孫は、友だちといっしょに同級生の女の子を半年の間強姦し続け、女の子は自殺したというのに、その事実を恐れる様子もない。また、加害少年たちの父親は示談でカタをつけるのにやっきで、女の子やその遺族の痛みに思いを馳せることはない。
感じる者と感じない者のコミュニケーションの断絶が、ミジャをおしゃれで変わったおばさんとして孤立させる。ミジャが、病院で見た可哀想な母親の話を会長の娘にしようとしても、接客とレジうちに忙しい会長の娘は話を聞くどころではない・・・というか無関心というありさまだった。(ソン・ガンホっぽい警察の人が係わってくれたのはよかった。詩の朗読会で人を喜ばせようとするし、自分に批判的な人とも交わろうとするし、いい人だ~。)

ヒラヒラふわふわと存在し、浮世ばなれした人と思われそうなミジャだが、家政婦として介護している会長との遣り取りを見ていると、なかなかのおばさんだ。会長に「今日は機嫌がよくないね」と言われると「私が笑顔になると会長なんか骨抜きですよ~」と軽くあしらい、バイアグラで行為を迫られると手厳しくつっぱね、会長にお金を無心するときも間に入った娘に「お金を頂にきたんですよ」と軽い調子で当然のように言うのが手練れだ。一度拒んだ行為なのに、なぜ、仏心を出したのかは私にはわからないけれど、本人も言っていたように一通り(以上)の苦労をしてきたことはわかる。

ある素人文人が教えてくれたことだけれど、塵芥が渦巻いているうちは作品にならないそうだ。澱となって沈殿し、その上澄みを掬う。それが作品を作るということのようだ。
多くの人は感じたことを吐き出してしまう。愚痴を言ったり、意見として表明したり、相手にぶつけたり。ところがミジャは、孫にも娘にも肝心なことは言わなかった。孫の犯した罪も自分に下されたアルツハイマーの診断も瞬く間に沈んでいって、これまでの人生で澱となったヘドロの中に紛れ込んだのだろう。あとは上澄みを掬い、文字として出力する回路が通じるのを待つだけだ。

これだけ触発される映画だったけれど、私はそれほどの感動はなかった。というのは、ミジャの「アグネスの詩」の字幕をまったく読めなかったから。日本語だったら耳から入ってきてよかったかもしれないが、外国語だから字幕に頼らざるをえない。でも、私の集中力は画面を見ながら字幕を読むってことに1分も持たない。映画なんだから映像で表現してよ~。って、無理な話(^_^;。
はじめはミジャの声で読まれていて、アグネスに捧げられた詩のようだったが、途中から死んだ女の子の声に変わった。内容がわからないので何とも言えないが、私はミジャがアグネスに同化して亡くなった者の視点で詩を書いたような気がしている。
孫を警察に引き渡し、釜山で働いている娘を呼び戻し、忽然と姿を消したミジャ。はて、どう受けとめようか。はてなマークいっぱいで上映会場をあとにした。

[追記]
カミヤマさんのブログポエトリー アグネスの詩(ネタバレ)で、ミジャが会長さんと事におよんだ動機を読み、「そうだ、そのとおり!」とものすごく納得がゆきました。

暴行の現場に行ったり、飛び降りた橋に行くだけでなく、ミジャは男子たちに乱暴されたアグネスに寄り添うために、体が不自由な金持ち老人(キム・ヒラ)に抱かれたりもするんですね(って、拡大解釈かもしれませんが、僕はその後で500万ウォンをせしめたのは結果論だと思う)。

会長さんとの事は、橋を見に行って川べりを歩いたあとだったと思うので、ミジャの心の動きとしては「アグネスに寄り添うため」がしっくりきます。お金のために仕組むのはミジャらしくないので、「500万ウォンをせしめたのは結果論」というのに大賛成。仕組んだと思われても仕方ないと思って、ヘタな言い訳をしないミジャのいさぎよさは、返せる当てがないので「貸して」と言わずに「ください」と言った清廉(?)ぶりとマッチしていると思います。

POETRY
監督:イ・チャンドン
(シネマ・サンライズ 2012/09/15 高知県立美術館ホール)