ジャズコア・フライブルグ2

高知市ではチケット完売だったそうだが、須崎市民会館は1階は満席、2階は20人くらいだった。
先日のレニングラード国立バレエの公演も、昨年の松本幸四郎、市川染五郎親子の「勧進帳」も2階席は埋まらなかったので、須崎市民会館の満員御礼はなかなか難しいことなのかもしれない。
ジャズコア・フライブルグの須崎市公演で面白かったのは通訳だった。おそらく素人の即席通訳だからだろうと思うが、指揮者のベァトランド・グレーガー氏が言うことをほとんど訳せなかった。でも、会場ではおおよそどんなことを話しているか見当はついたので特に問題はなかったし、かえって手作りコンサートの雰囲気があってよかったかもしれない。それに、グレーガー氏が、自分が話したセンテンスより極端に短い日本語訳に「(訳せているか)怪しいぞ」という感じでユーモラスにしゃべるのが可笑しくて、思わぬところで笑いが取れて愉快だった。
また、アカペラの始まりでは、ピアノで最初の音を弾くのだが、何と言う曲でだったか、いざ歌いだすと音が取れてなくてグレーガー氏がピアノのところまで走っていき、ポロロンと奏でいそいそと指揮の場所までもどる身のこなしが、ショーマンやなぁ(笑)!
アコースティック・インスティンクトの口太鼓ソロのときも、太鼓を叩く振りの指揮だったし。何気に楽しくさせてくれる。
アンコールは何曲やってくれたんだっけ。アンコールが30分近くあったのには驚いたけど、本当に「ありがとうねー」と言った感じでよかった。
そうそう、客席で手拍子はもちろん、指笛も出た!私も鳴らせるものなら鳴らしたかった、でござる。

ジャズコア・フライブルグ

昨晩、フライブルグ市(ドイツ)の市民ジャズコーラスグループのコンサートへ行ってきた。なかなか楽しく盛り上がり、ノリノリで聴いた。
個人的には3曲目の“Here we are”を1曲目にすれば、1曲目から乗れたのにと思う。それだけ“Here we are”が気に入ったし、つかみの曲にピッタリ。
ジャズコーラスというのが、想像がつかなかったけれど(なにせ総勢30名、指揮者、ピアノ、コントラバス、ドラムスを含む)、なるほどジャズコーラスだわ。コーラスをバックに、女性スキャットのソロが映えたり、アカペラもささやき、吐息、地声あり。
ジャズコア・フライブルグの演奏だけでも結構変化に富んでいて(なにせユーモアのある指揮者だし)楽しかったと思うが、北欧の歌姫トールン・エリクセンと口パーカッションの3人組アコースティック・インスティンクトとの共演がこれまた非常に楽しく愉快だった。
トールン・エリクセンは、パンフレットには「深くなめらかで絹のような声を持つ」と書かれていたけれど、ちょっとハスキーに聞こえた。前のめりの姿勢で、リズムもメロディも彼女の体の中かから繰り出される感じ。クワを持てば畑をたがやせそうな、あの独特の乗り方はこちらにも伝染する。見ていると自然と乗ってくるのだ。彼女の持ち歌“Joy”は美しい曲だったが、やっぱり前傾姿勢は健在。
アコースティック・インスティンクトは、一人が同時に数種の音を出せる。「ポカッ」「スカッ」「ドン」と、どつき合いをアニメっぽいコミカルな味付けにしているのが、あまりの調子のよさに思わず笑ってしまった。
フライブルグのメンバーの衣装は、デザインはバラバラだが、前半では赤と黒で、休憩を挿んだ後半では白と黒で統一されていて、視覚的にも楽しませてもらった。(気がつくとミニスカートの女性の足に目が行くねぇ(笑)。)
それにしてもドイツ人はデカイ!
アコースティック・インスティンクトの3人は若いしスリムなので、舞台上では小柄に見えたのだが、サイン会場で間近にすると大きかった。舞台で小柄に見えたのは、他の出演者との比較のうえで相対的に小さく見えていたのだった。

七月大歌舞伎>松竹座3

8日の続き(^_^;。
昼の部の「鳴神」は、よくできたお芝居だ。白雲坊(市蔵)と黒雲坊(男女蔵)の掛け合いが笑いを誘い、鳴神上人(愛之助)と雲の絶間姫(孝太郎)の艶っぽい遣り取りで盛り上がり、姫が捕らわれの龍を解き放ち(これが歌舞伎ではおなじみのスローモーション。デ・パルマ効果で結末がわかっていても地団太を踏んでしまう。)、雷鳴が轟くまで一気に観てしまう。
愛之助の鳴神は、ちょっと腹黒い感じがして高僧という雰囲気ではなかったような気がするけれど、騙されたと知って怒り狂う荒事の場面も頑張っていたし、難はなかったと思う。
孝太郎は何をやっても上手いな~。その役の年齢、雰囲気にすっかりなっているものなぁ。
「橋弁慶」は牛若丸を高校生の壱太郎が演じて清々しかった。小さくて、きびきびして「牛若丸!」という感じがした。踊りの所作が美しいからか、それとも若いからなのか、透明な輝きがあったと思う。
「義経千本桜」は、渡海屋での渡海屋銀平(仁左衛門)がカッコよかった。一角の人物であると思わせる風格があった。職人らしい粋も感じさせられた。
大物浦での知盛は、世を忍ぶ仮の姿渡海屋銀平とはがらりと変わって(風格はそのままに)、討ち死に寸前、瀕死の格好でありながら、幼い安徳天皇は必ず守ると言ってくれている義経を執拗に討とうとする。頭に血が上っているのだ。それを安徳天皇に「義経の情けを仇に思うな」と諭され、刃向かうのをやめる忠義の人となるのであった。
典侍の局(秀太郎)の自害や、それに先立つ女房の入水など、あまり共感できるお芝居ではないのに、そのうえ幼い安徳天皇が一人前の主人らしい口を利くという大きな違和感があっては、知盛の忠義に涙もわかず、私は周囲の観客から取り残されていた。それでも満身創痍での壮絶な最期には圧倒されたので、安徳天皇がせめて12、3歳くらいなら納得がいくお芝居なのにと思わずにはいられなかった。

七月大歌舞伎>松竹座2

5日のつづきです。
「身替座禅」は、奥方玉の井(歌六)がチャーミングだった。「ぜったい浮気はさせまいぞ」という気持ちと、座禅を組む右京(仁左衛門)を気遣う気持ちがよく伝わってきた。夫が座禅を組んでいるものと思ったら、太郎冠者(愛之助)が身代わりに座っており、当人は浮気をしていると知って地団太を踏む様子は、なんとも可愛い。男の声で夫や太郎冠者を脅すのも笑えた。
仁左衛門はコメディやっても色っぽいねぇ。
愛之助は「鳥辺山心中」の半九郎も「鳴神」の上人も悪役っぽい雰囲気が漂っていて、私はどちらの役も合ってないような気がしたが、「身替座禅」の太郎冠者は安心して見られた。
「鳥辺山心中」の半九郎は清廉な感じがほしい役だと思った。将軍のお供で上洛している間、祇園の遊女お染(孝太郎)を好きになり、明日、国もとに帰るというとき、お染を連れて行くことが叶わなくても、せめて身請けをしてやりたいと、家宝の刀を売ろうとまで思いつめる役だ。その一途さは純粋で美しく感じられるものであってほしい。
そうでなければ、その後の展開・・・・・竹馬の友市之助(秀太郎)にやんわりと諌められ身請けを諦めるが、くすぶる気持ちを酒に紛らわせているところ、源三郎(薪車)にいちゃもんをつけられたうえに、お染を突き飛ばされ、ついにプッツン来て相手を斬り殺し、切腹させられるなら心中を・・・・・という展開に同情できない。
愛之助の半九郎は、世慣れた感じがして、上記のどこかで自分自身で歯止めを掛けられそうな人物に見えた。歯止めを掛けられなかったのは「酒ゆえ」であって、「お染ゆえ」に見えないところが残念だった。
以上「鳥辺山心中」を見たのは初めてなのに好き勝手に書いてしまったが、もともとこんなお芝居なのかもしれない。