う~ん、まんじゅう怖いという落語があったが、私はお金が怖い。中国と日本の合作映画、『罪の手ざわり』を構成する四つの話はすべてお金がらみだ。共同所有だった炭坑を奪われ利益を一人占めにされた者、妻子を養うため出稼ぎに行って自暴自棄になった者、金持ちにバカにされ買春を強要された者、職も恋もなくしたうえに仕送りせよと親に迫られた者。いずれの話も富める者と貧しい者が登場し、貧しい者が人を殺めたり自死してしまう。貧しい者の追い詰められ加減(あるいは自棄の加減)が、見ていて苦しくなるくらいだった。作り手は追い詰められた側に立ち、傷つけられた自尊心の爆発を華々しく描く。また、儚く生きる若者の死を唐突に描くことで、見る者の心にくさびを打ち込む。金が物を言う社会は、金に物を言わせる者が作った。ラストシーンの京劇で発せられる「罪を認めるか」という問いかけは、それこそがグローバル化されるべきだろう。
しかし、この作品、大事なのはお金のことではない。大事なのは、正しく「映画」(しかもスケールの大きい「映画」)だったことだ。中国の北部から南部まで四つのエピソードがつながっていく(うかうかしていると、つながりを見逃す)。景色も湿度も違うし、言葉の響きも違う。映像の切り取り方、つなげ方が見事だ。各エピソードに異なる動物が出てくるが、それは何を象徴しているのか読み解く力も必要だ。大変な映画力を要求されるので、目を皿のように、耳をじょうごのようにして臨むべきところ、修行が足りず所々で居眠りしてしまった。
前に見た『長江哀歌』は、映像パワーは凄かったものの、ヴェネチア国際映画祭の金獅子も張り子に落ちたかと思えるような内容だったけれど、やっとジャ・ジャンクー監督作品のよさがわかった。
(シネマ・スクウェア 2014年9月号)
お茶屋さん、
>やっとジャ・ジャンクー監督作品のよさがわかった
同感です(笑)。
次作はまた危ういんじゃないかという懸念が拭えませんが(たは)。
ところで「シネマ・スクウェア 2014年9月号」って、『東京難民』の上映会で配られてましたっけ?
『東京難民』の上映会で配られていたと思いますよ。行けなかったので、ガビーさんにメールしてもらいました。
ジャ・ジャンクー、やればできる子(笑)。