海炭市叙景

エアコンの壊れた真夏の劇場で観たとしても、底冷えがするだろう。海炭市は冬、産業も商売も、人生も冬。風景も人々の営みもやるせない。雪が溶けた春先で終わるけれど、この映画は冬景色の冷たさがいいのだ。
劇場にこのような空気を作れる映画は滅多にない。すべての登場人物の気持ちにシンクロできたし。いい映画だった。(人物同士の関係に普遍性があり、今の時代の一地方でなくとも充分成り立つ景色だと思うけれど、金の切れ目が命の切れ目につながってしまう日本の今が映されていたような気がした。)

アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち

日本人がみんな盆踊りを踊れるように、アルゼンチン人もみんなタンゴを踊れるのだろうか?そんなことを考えながら観た。もっと、タンゴを聴かせてくれよー、もっと、踊りを見せてくれよー、とも思った。みんな、長生きだなーとも。
知らないマエストロばかりだし、その人たちがぽつぽつと思い出を語るのをバラバラと観ても、印象に残るものは少ない。ヨーロッパには真似できない魂のタンゴ。そんな言葉だけが印象に残った。

山猫[イタリア語・完全復元版]

国宝の螺鈿とか蒔絵みたいな。衣装や調度品から役者の顔まで、バロックか何だかわらからないけれど、そういう絵画から抜け出たような。スクリーンのどこを切り取っても画面の密度が高いのに驚かされる。風景は乾いていて陽射しも強く、遠く霞んだ感じも美しい。一方、長旅で土埃にまみれたまま、教会での歓迎式典に鎮座する公爵家一行の姿や、映画の三分の一を占める舞踏会での便器部屋なども記憶にとどめておきたい。古い映画だから(1963年制)音質はよろしくなけれど、これは目のご馳走。これこそ大画面で観るべき作品だと思う。
サリーナ公爵(バート・ランカスター)は、貴族社会の終焉を感じ、時代の変遷に応じた対策を講じる意識はあるが、彼こそ貴族の伝統そのもの。威厳といい風格といい、甥のタンクレディ(アラン・ドロン)が逆立ちをしても追いつかない。だけど、生き残るのは万事にそつなく機を見て変容できるタンクレディであって、動じない公爵ではないのだ。
マズルカを踊るのをやめた公爵と、軽く切れのいい身のこなしのタンクレディ。沈殿したような(ヘソも見せてくれない(笑))公爵夫人(リナ・モレリ)と、野性味あふれたアンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)。
まばゆいばかりのカップルを眺める公爵が何を思うか容易に想像がつくけれど、資産家でもなし、死にかけてもいない私には貴族の終焉と老境を重ね合わせたこの映画にそれほどの感慨はなかった。あ、いや、ジュリアーノ・ジェンマが歌っていたのにビックリだった!本当に歌ってるのかなぁ?
[追記]
1982年の感想では「貴族が最後の火花を散らせている、その代表バート・ランカスター。新しい時代に順応していく若者代表アラン・ドロン」と書いている。「おもしろい、おもしろくないと言う前に、わからなかった」で始まり「わからなかった。残念。」で終わる4、5行の感想だ。絢爛豪華の舞踏会や、壁に掛かった絵画にも関心がなかったのか?
同じ頃観た『若者のすべて』では、アルマン・ルーランの肖像があったことを記憶しているので、ゴッホだけしか知らなかったのだろう。それにしてもアルマン・ルーランは、アラン・ドロンに似てるよね。