フォードvsフェラーリ

若い頃は努力が嫌いで、なにか目標を持って血と汗と涙(そのどれかでも)を流すということはなかった。頑張ったのはテスト前の一夜漬けがせいぜい。生まれつき易きに流れ、好きな言葉は「理想は高く、目標は低く」。今までやってこれたのは、幸運以外の何ものでもない。そんなワタクシが、世界で一人しか味わえない達成感に浸ることができるって、映画って本当に素晴らしい。

アメリカで自動車修理業を営みながら、自作の改造車でスピードレースに出場し続けている(アメリカ人からするとちょっとクセのある英国人)ケン・マイルズ(クリスチャン・ベイル)が、ル・マンの24時間耐久レースにおいて、ぶっちぎりでトップに立ち優勝確実というときの歓喜と達成感と、その後の寂寥感がたまらない。このシーンが鑑賞後5ヶ月経っても忘れられず、思い出すと何とも言えない気持ちになる。マイルズの気持ちがわかったわけではないが、共鳴してしまう名シーン(名演技)だった。

また、ル・マンで優勝経験がありレースの孤独を知る者、キャロル・シェルビー(マット・デイモン)は縁の下の力持ちで、企業イメージを保つため変人英国人を排除したいフォード社と凄腕レーサーマイルズの間に挟まって奮闘したり、ルールブックの読み込み合戦やフェラーリチームを出し抜いたりの活躍ぶり。ルールブックや出し抜きは、大金のかかったレースが綺麗事だけでは勝ち抜けない厳しさを描いており、アイルトン・セナのドキュメンタリーを思い出したりもした。

フェラーリ社長の一言にカチンときたフォード社長が発憤するコントは笑えたし、マイルズとシェルビーの名コンビも最高に楽しかった。レースシーンは、もちろん手に汗握った。ただ、この映画の真価は、成し得た者の歓喜と痛みを感じさせてくれることだと思う。それは、とても個人的で大切なもので、優勝の栄誉などはおまけみたいなものなんだろうと思えた。
(2020/02/11 TOHOシネマズ高知5 ジェームズ・マンゴールド監督)

家族を想うとき

ところどころ笑ったけれど、ラストカットは(ToT)(ToT)(ToT)。

良い夫婦。良い兄妹。良い親子。一人一人も良い人。セブ兄ちゃん(リス・ストーン)は賢いので先が見通せてしまう。絵もうまい。ライザも賢く健全。(夜、子どもだけにするのは、本当にいかんって。)二人ともよい子に育ってくれてよかったね。リッキー父ちゃん(クリス・ヒッチェン)、働き者!アビーママ(デビー・ハニーウッド)、聖人に思える。介護の仕事でお年寄りの世話をするときは、自分の親と思って接するとか頭が下がる。声も話し方も穏やかで優しく、家族も仕事の相手もよく観ているし、ぜんぜん怒らない(自制が効く)。その彼女が怒り心頭に発し、電話でリッキーの上役に物申すところでは、思わず「そうだ!もっと言うちゃれい!」と拍手喝采(高倉健の任侠映画風)だったが、彼女はすぐ反省してしまうのだった。成れるものならアビーのように成ってみたい。

子を思う親の気持ちも、親を思う子の気持ちも余すところなく描かれ、素晴らしいファミリー映画になっていた。特に皆で車に乗って盛りあがるところの一体感(ツボ)。
それがリッキーにしてもアビーにしてもあのような働かされ方で(あれで合法はいかんでしょう?)、私はこれまで長時間労働は諸悪の根源と思ってきたけれど、問題は長時間労働だけではなくなっている。アビーの働き方にお年寄りが驚いていた。日本でもお年寄りの時代は労働条件を良くしてきた時代で、私の世代(50~60歳代)はその恩恵にあずかってきたが、私たちがのほほんとしている間にどんどん非道いことになってきた。投票と署名だけではダメだった、うえの世代のように仲間を作って運動しないと・・・と今の非道い日本に責任を感じていることをこのシーンで思い出した。

この作品は、人やその状況を描くのに徹している。主張があるとしたら、「この状況をどう思いますか?(良いとは思わないでしょう。)」かな。良いとは思ってないことに政治的な主張があると言えばある。いずれにしても、ラストカットは泣きながらも考えることを促される。
やっとこさトイレに来れたと用を足しているところを呼び出されたことのある私も、ペットボトルの尿瓶にはしびんれた。トイレに行けないなら飯抜きは当然のごとく。アビーもリッキーも奴隷(≒)ですわ。奴隷には考える暇もないので、考える余裕のある者が考えて、この働き方が非合法となるように投票しますわ、と考えましたよ。>ケン・ローチ監督

原題が素晴らしい。『Sorry We Missed You』は、てっきりラストシーンのことだと思っていたら、不在票にも同じことが書いてあるとのこと。「以前の父ちゃんでなくなって、寂しい」という家族の思いと、「お会いできず、残念」という不在票の二つの意味を兼ねている!邦題で悩んだんだろうなぁ。
(2020/06/22 あたご劇場)

ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語

小学校のとき読んだきり。やっぱり一番人気はジョーだよね。大好きだった。で、ローリーももちろん好きで、二人がくっつけばいいのにと思っていた。ベスの猩紅熱や父の不在は覚えていたけれど、あとは綺麗さっぱり忘れていた。

映画のジョー(シアーシャ・ローナン)が、自作を批判されて色を成すところや、小説家を諦めローリー(ティモシー・シャラメ)の嫁になるか~と考え始めたところでは、こんなに弱い人だったんだと意外に思った。でも、それは無理もないと映画の中でちゃんと描かれていた。女性の職業といえば家庭教師か女優か娼婦、そうでなければ誰かの嫁にならないと生きていけない(小説家なんて無理)という風に。

もう一つ意外だったのは、エイミー(フローレンス・ピュー)。原作を忘れているのに何故かちゃっかり屋のイメージがあったのだが、めっちゃ良いキャラクターやん。確かに、伯母(メリル・ストリープ)にヨーロッパに連れて行ってもらったり、ローリーと結婚したり、結果だけ見るとちゃっかりイイとこ取りに見えるけれど、ヨーロッパ旅行は婿捜し(一家を養える経済力のある人から求婚されるよう使命を帯びているので責任重大)だし、ジョーに振られて腐っているローリーに対する片思いも実にいじらしく健気だ。結婚して、早くもローリーを尻に敷きそうなところも(低い声も)サイコー(^o^)。

女性にとって結婚は経済問題とセリフでもあったとおり、お金のこともしっかり描写。長女メグ(エマ・ワトソン)の夫は財力がないためコートを新調することも出来ない。妻のドレスなんて贅沢中の贅沢。でも、メグと夫を見ていると愛情があるだけで幸せだと言える。このエピソードの陰に愛も財もない不幸な結婚があり、それでもしないよりはマシなものという当時の認識がうかがえる。

ベス(エリザ・スカンレン)のお陰でジョーは「書く」ことに戻れた。それで自叙伝ともいえる物語を出版社に持ち込んだわけだが、編集長の言うとおり物語としては、やっぱりジョーとフレデリック(ルイ・ガレル)が結ばれる方が読者も観客も嬉しい(売れる)。それに今もって結婚が経済問題であるところの(多くの?)女性に夢と希望を与えるかも。能力を発揮し、職を得て経済的に自立し、愛情も得る。ジョーを目指せ(^o^)。
ジョーが伯母の遺産で男女共学の学校を開く結末は、現実の未来を少し明るくしてくれた。

クリス・クーパーが、ミスター・ローレンス(ローリーの祖父)役で出ていた~(^_^)。ローラ・ダーン(姉妹の母)、なぜか好き~。
ヨーロッパ帰りのローリーもビックリ、アメリカンな姉妹。とにかくアメリカを感じる一作。
(2020/06/17 TOHOシネマズ高知7)

デッド・ドント・ダイ

ジム・ジャームッシュがゾンビ映画!?『ワールド・ウォーZ』や『新感染 ファイナル・エクスプレス』を観たときだったか、ジョージ・A・ロメロ作品のゾンビはあんなに速く動かないという批判(?)を目にしたことがあったので、ジャームッシュ作品ならきっと由緒正しい速度だろうと思った。ロメロの作品は観たことがなくて、そんな私が見てもどうかなぁと思いつつ行けば・・・、面白かった~!作り手が楽しんで作っているのが伝わってきた。イギー・ポップのゾンビが似合いすぎ(笑)。ティルダ・スウィントンも○○が似合いすぎ(笑)。ロメロ作品を知っている人は、更に楽しめるんだろうなあ。

ゆるいテンポとオフビートなユーモア健在で、いつもどおり詩情がある。何かの工事で地軸が変わったため死者が蘇るという設定に、地球環境を破壊するような現代文明を批判しているように思えた。また、生前に執着していたものを断ち切れないゾンビたちが描かれていて、そこが人間らしいところだと思えてきた。肉を食らうゾンビは、ひじょーに恐ろしいが(オエッ)、執着していたことをつぶやきながら、さ迷う彼らには親近感がわく。さしずめ私なら「館(映画、美術、博物、図書)ゾンビ」だろうか。
はじめは消費文明を批判しているのかと思って観ていたが、ミンディ(クロエ・セヴィニー)の祖母だったゾンビが「ミンディ、ミンディ」とつぶやいていたので、文明批判だけではなく執着批判かと思い改め、更には批判ではなく親近感だと思うに至った。

ロニー(アダム・ドライヴァー)が署長(ビル・マーレイ)に、よくない結末が待っていることを再三口にする。これは観客に対する「驚かないでね」という心遣いだろうか。でも、地上で生き残った者も4人はいるので、希望はある。続編も可能だ(^o^)。

(2020/06/11 TOHOシネマズ高知9)